過去の不二095 - 臨済宗青年僧の会

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過去の不二095

過去の不二
【095号】
【第95号】:平成23年10月1日  

 萬仭軒 田中義峰老師
 虎渓僧堂  師家 【掲載当時】
 
 日々是好日 

出家のきっかけ

 大阪の吹田で生まれて、二歳半のときに父が亡くなって、私と母と姉と三人で満州の張家囗へ行きました。そして、戦争が終わった昭和二十一年、満州から引き揚げてきて、母方の祖父母が京都に住んでおりましたので、そこへ戻り京都での生活が始まりました。
 だから小学校から中学、高校、大学までが京都住まいでした。工業高校機械科だったから、印刷の輪転機の技師として大日本印刷会社に入りました。あるとき、五月の連休に仲間と一緒に上高地の西穂高に登りました。本格的な登山ではないので、普通の登山靴をはいて、ピッケルも何も持たずに登りましたが、上高地にはまだ残雪があって、山頂から下るときに足が滑るわけです。そこで考えて、ビニールを尻に敷いて滑りだしました。だんだん調子に乗って、気持ちよくなってきたので、行きとは違う道を滑り出しました。それで背中にはリュックを担いでいるから加速がついてきて、今度は止まらなくなってしまいました。それでパッと前を見たら、もう先はまっ黒け。そこから先は完全に絶壁になっていました。ここで落ちていたら終わりでした。幸い一本木があっだので、これにつかまることができて命拾いしたわけです。このときにいっぺん死にかけ、これが一つの出家のきっかけになったわけです。




出家の始まり

 このままずっと印刷会社で仕事を続けていくか、それともほかの仕事をするか。大日本印刷は二部制だったので、一日おきの勤務でした。まる一日働くと翌日は休日になります。朝八時に出勤したら、あくる日の定時は午前の四時まで。その当時の大日本印刷は残業が多いので有名だったけど、これをいつまでも続けていていいかどうかを考えて、母親に相談したわけです。
さっきも言ったように大日本印刷は二部制でしたから、帰って寝ても昼には目が覚めてしまいます。それで尺八を習いに行きました。そこで尺八の先生になるか、尺八を作りながら演奏している人たちもありますが、そういう仕事をしたいと母親に言ったら「それはやめておきなさい」と言われた「それじゃお坊さんはどうかね」と聞いたら、「坊主ならええ」と言う。なぜええかというと、自分も若いときに尼さんになりたかった。でも親に反対されてどうしても尼さんにはなれなかったという経緯があったからでした。

 そうこうしているうちに、母方の遠い親で会社を経営している会長が山田無文老の信者だったので「同じ学校へ行くんな無文老師の大学へ行け」と言われて花園大学へ行くことになりました。それまでは高野山に上るつもりでいました。その会長が言うのに「無文老師の法話と、仏教的には因縁を徹底的に調べろ。経済的には金利の研究をしろ。それだけでいい」と言われました。こうして花園大学には、その会長の会社で勤めをしながら通いました。昼間学校へ行って朝と晩に仕事をする。会社の寮の一室に入れてもらって住んでいました結構この寮が広かったから、朝はここの庭掃除と便所掃除をして、夜は事務所の女の子が帰ったあとの電話番をしておれということでした。こうしてその会社の寮に住みながら、学校へ通って大学を卒業したのが昭和四十四年でした。卒業してまず入っだのが、大阪の釜ケ崎の愛隣地区でした。やはり宗教家なのだから、この人たちのために何か救済活動をしなければならない、と思いながら入りましたが、何も組織を持っていないから動きようがなかった。そのうえ大阪万博の前の年でしたから、仕事がいっぱいくるのでみんな困ってはいない。一年数か月そこにいて、いろんな仕事を覚えました。その後釜ケ畸を出て東京の方に行きました。

 東京は山谷に行きました。これが昭和四十六年でした。当時は赤軍派というのが革命を起こすといって盛んに活動していたときでした。警察は特別警戒体制をとっていました。尺八を頭陀袋に入れて歩いていたら、「ちょっと怪しいから来い」と警察に引っ張られたこともありました。頭陀袋の中から経本や尺八が出てくるので、警察から謝まられました。「お前、腹減っているだろう」って、そんなこともありました。

 しかし東京はどうも自分の肌に合わない場所でしたから退散しました。東京から歩いて帰る途中、三島まで来ところで、非常に尊敬していた山本玄峰老師がおられた龍沢寺をのぞいてみようと思い、是非入門をさせて頂けないかと長髪でリュックを担いだ姿でお願いしました。そのときの知客寮が鈴木宗忠老師だったと思います。追い出さず丁寧にお茶をたててくれて、話をしてくれました。「禅家というのはお師匠さんを見つけてそこへ入るという形になっているから、自分の知っているお寺があるんなら、まずそこへ行って弟子入りをして、それから掛搭しなさい」と言われました。それで京都へ戻り、家族の知り合いの慈氏院に入門しました。そのときの住職が御手洗義文、室号は虚心庵という人でした。この方に昭和四十六年の十月五日、達磨忌の日を選んで得度してもらいました。そのときすでに三十歳でした。これが出家の始まりです。すぐに雪安居が始まるから何にも教わらずに南禅僧堂へ行きました。袈裟の掛け方も知りませんでした。最初からよく叱られました。「一週間で嫌になったら慈氏院に戻ってくればいい」と言われてきたけれども、もう帰るところはないわけで、僧堂におらなければならない。そうこうしているうちに、昭和五十八年十一月に南虎室勝平
宗徹老師が遷化され、その百ヶ日忌を終えてから転錫を決めたわけです。
そして昭和五十九年の四月に御手洗義文老師と因縁のある倉内松堂老師の臨済寺へと転錫しました。

因縁
 平成十二年に臨済寺を暫暇し、慈氏院の住職になりました。しばらくして、虎渓山の総代さんや山内の和尚さんが拜請に来られたわけです。三顧の礼です。三度来られて仕方なく、やむをえずですね。これも因縁です。
 平成十五年の四月に晋山式をし、そしてここの火災、不祥事が起こったのが十五年の九月。庫裏からずうっと大玄関、大方丈まで総なめでした。
その前にここで住職をしていた中村文峰老師の管長晋山式が南禅寺でありました。その後私も晋山式を祝ってもらってお祝い事が二つ続いたわけです。そのすぐ後に火が出てしまったというような因縁でした。
 かつて、会長が因縁というものを研究しろと言っていたけれども、人生は因縁でみんなお互いにつなかっているんですよ。あなたとも、さかのぼっていけば一緒になっていく。自分の記憶にはないけれども何かがある。何らかのつながりがあるから、住職で座れることになる。そのときにはわからなくても、あとでよくみるとそういう縁があったということがわかる。ここの炎上も一つの縁でした。




日々是好日
 火災後の気持ちとしては、雲水と一緒に日常底に精進、修行していくということです。これは、再建してくれる方々へのお願いみたいなものですね。「一所懸命修行してますよ」という姿から、また応援してくれる方が出てこられる。こういう火災があったが故の因縁です。地元の多治見の方々とも親しくなれたという因縁です。火災がなければそう親しくはなっていなかったかもしれない。僧堂はもう閉ざされている世界だからね。でも多治見の町の人は虎渓山永保寺を心のふるさととして、あらねばならないお寺、拠り所として皆さんが思ってくれている。それがこういうことが起こったが故に感じられたわけです。
 東北の大震災も災難は災難。ここに良寛さんの歌がある。これはそういうときに出してはいけないという人もおるけれども、そうじゃない。「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候」だ。災難に遭って、なぜそういうことになってしまったか、災難に遭って初めて考えることができるわけだから、ここからまた飛躍して災害復興に頑張っていきましょうという気持ちを養わないとダメですね。だから「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候」だ。どうしようもない。突然襲ってくるのが災難だから、それをしっかり受け止める。しかもこれを「日々是好日」とひっかけて、どういう災難に遭っても、この災難に遭ったがゆえにそれを軌軸として、もう少し人間考えなければだめだ。ちょっと心の内を振り返ってみた方がいいのではないか。あまりにもわれわれは贅沢になりすぎた。災難に遭って初めて生きておるという、日々の単純な日暮しができる有難さを初めて知るわけです。電気も機械も何でも使い放題。でもこの災難を機会に、このままでいいのかどうか、よく考えなければいけない。これまた災難に遭ったが故に感じられることです。「病に逢う時節には病に逢うがよく候」。
 病を患らえばやはり人の人情というのがわかってくる。そうして死ぬときにはさっさといけばいい。迷うことはない。無心に生まれて無心に帰っていく。そういうことは別に考える必要はないというのが禅の教えなんだ。死ぬことは別に考えんでいい。無心に生きていくこと。「日々是好日」で一生懸命に生きていく。禅の有名な言葉はごくごく単純だ。「いま」、「ここ」これしかない。この私が「いま」、「ここ」どう立ち向かっていくか、これが禅の根本なんです。「いま」、「ここ」をどう生きていくか。過去のことはどうしようもない。反省の材料にはなるけれども、くよくよしてもどうにもならない。未来を思うても、それが現実として夢がかなうかどうかはわからない。とにかく結論的には「いま」、「ここ」を真剣に生きる。このことしか禅僧として生きる道はないのです。それは皆さん方も、在家の人々もみなそうです。その立場によってどうしてやっていくか。これまたその人の使命としてどう生きていくかを考えてもらうのです。



禅の教え
今、ちょうど紫陽花の花の時期で「紫陽花やきのみの誠けふの嘘」という俳句を作った人がいる。有名な正岡子規、明治時代の俳人です。この人は三十六歳で亡くなっていますが、その最期の言葉の中に「自分は禅というものは、いつでも死ねる覚悟を持っておる、そういう気力を養うことが禅だと思っていた。しかしよく考えてみると、いかにこの生を生きていくか。死ぬ覚悟ではなくて、いかに生きていくかが禅であった」と言っています。子規はご存じのように、カリエス結核で非常な痛みを抱えて亡くなっていった人です。けれども最後にはこういう言葉を語っている。これもまた「日々是好日」につながってくるものです。昔、鎌倉時代に武士が禅に傾倒していったが、武士は刀で相手を殺さなければならない。そういう姿が正岡子規は禅だと思ったのだが、そうではなかった。いかに生きていくか、これが禅の教えだと思いました、ということを言っていたのです。




我を捨てる
雲水への教えの基本は「越州の無字」だね。要するに我というものを坐禅をしながら切っていってもらう。それにはやはり時間がかかります。これは頭のいい人ほど我を強く持っているので、これをいったん切ってやらなければならない。この我をとっていくことによって無心に近づいていく。「私」というものがなくなっていけば相手と一枚になれる。徹底してその人の我を切ってあげる。そのことで本来の自己に目覚めていく。囗でいうのは簡単だけれども難しいことです。でもやってもらわなければ困ります。
雲水によく言うのだけれども、本当に「無字」を徹底できたなら千七百の公案というのは解けちやいます。だけど白隠さんが「無字」だけじゃ六年もやっていられないから、公案体系というのを作られたわけだ。どこかの公案にひっかかって「無字」を本当に喝破するのではないかというのがねらいどころですね。これが白隠さんのやり方、公案禅がそういうことになっているわけです。だから変な我は捨てていただきたい。







青年僧へ
「らしく」ということだね。和尚さんは和尚さんらしく。青年僧は青年僧らしく。若い人にはいろいろな発想があるじゃないですか。すべて同じことをしろというわけではない。それぞれに得意分野もあるだろう。けれども仏教というものは、お釈迦様の永遠に続く教えなんです。人間というのはやはり宗教がないと生きていけない。これを自分らもしっかりと学んでいかなければならないと思う。ゲーテの言葉に「芸術と哲学を愛する人は、いずれは宗教の道に入って行く。はやくから宗教に入ったら芸術は生まれない」と言っています。だから青年僧は青年僧らしく、その基本は慈悲。仏教というのは慈悲の宗教なんだから人の悲しみを、我が悲しみと思って手を差し伸べていくのが仏教者の生き方なんだ。だから震災で困っている人があれば助けに行く。向こうへ行って何らかの形でお手伝いすればいい。それができなかったら祈るしかしようがない。これはあまりにも消極的なようだけれども、この祈りの力というのはあるものです。やはりその人その人の務めに尽くしていくということです。

臨済宗青年僧の会(臨青)は昭和55年1月に「青年僧よ立ち上がれ、歩め」をスローガンに掲げ発足した全国組織です。
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