「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成30年12月〜】

 掲載号等  【第64号】:平成9年4月発行 

 正眼僧堂師家
 霧隠軒 山川宗玄老師

    
 
自坊の思い出
 東京でも埼玉県寄り、東久留米市というところの臨済宗妙心寺派、米津寺の生まれです。
 この寺は、徳川十三神将の一人の米津公の菩提寺となっています。開山は大愚宗築禅師。当初は大名の菩提寺ということで、権勢を誇っていたのですが、明治の初年度に放火のために全焼してしまい残ったのは山門だけだったということです。寺領はたくさんあったのですが、その復興がなかなかできなかったようです。間に合わせのような庫裡兼お堂の寺の二男として育ちました。
 中学生まで自分のところがお寺だとは知らなかったほどです。檀家のない寺でしたから、法要もなければ葬式もありません。父は平林僧堂で修行した人でしたが、役所勤めをして私たち兄弟四人を養ってくれていたのです。非常な骨山でしたから、その頃は、父も兄弟の中の誰かにこの寺を継いで欲しいという気持ちもなかったように思います。
 東京のはずれとはいえ人口の多いところでしたから、今では檀家さんも少しずつ増えてきました。そして、父もようよう念願の寺の復興に携わることもできるようになった頃、兄は寺を継ぐつもりで、東洋大学の仏教学科を卒業。その後、平林僧堂に掛塔しましたが亡くなり、現在は四男が住職しています。
 
 
 
人生の模索
 兄が平林僧堂に掛搭した頃、私は物理学を専攻した学生でしたが、卒業を間近に控えて、このまま就職してしまうことがどうしてもできなかった。その迷いの中で、学校側に頼んで卒業を一年延ばして頂き、その一年でなんとか身の振り様を模索する期間を持ったのです。その頃は、学生運動の盛んな頃で、レールの敷かれた人生に疑問を持つ学生が多かったように思います。
 この一年間に、アルバイトをしながら文学書を読みあさったり、あっちの講演会、こっちの講演会を聴いたり、美術館に出向いたりしていました。そういう時代だったのでしょうか、学生が変わっていましたね。自分の人生のためには一年や二年のまわり道は苦にしていなかった。学生運動の騒動を起こしたということは、世の中を変えようとしたこともありましょうが、学生が、ただ単に社会の歯車となることに抵抗を感じた時代だったように思います。そうした風潮の中で、「何か人の役にたてればなあ」と、身の振り様を模索した時期に、二つの目標がみえてきたのです。一つは現在の僧侶としての立場でしたが、もう一つは、酪農家になりたかったのです。
 当時は、援農といって、北海道の農繁期に学生たちが、夏休みを利用して手伝いに出かけていました。北レンでしょうか、干何百人かの労働者が募集され、それに学生たちが便乗してアルバイトに出かけていたのです。現地では各農家にそれぞれが派遣されて、朝は暗いうちから起きて、牛の乳しぼりに始まり、牧草刈りで一日が暮れていくのです。これに三年ほど通ったでしょうか、はじめはただ夏休みを涼しいところで過ごしたいという安易な気持ちでした。労働は非常にきついのですが、大自然の中でなんとも、生き生きしていたんですね。二回目ともなると、現地の農家でもお客さんという立場ではなく、家族という扱いをしてくれます。酩農家の表も裏も見ることができました。仕事はそれでも大変なのですが、忙しい時期を過ぎれば、あとは朝晩の乳しぼりだけでいいような、そんなゆったりした生活ですので、とても魅力を感じたのです。しかし、肉体的な面と、その当時の農業情勢を自分なりに考えると、大きな不安が立ちはだかったのです。
 
 
 
伊深の里へ
 米津寺に住職する和尚は、平林寺の弟子になるという伝統のようでした。妻帯したのは私の祖父からですが、祖父は平林寺の弟子で、祖母が米津家の血筋の娘だったようです。そのとき「山川」という姓になりました。
 祖父も父も兄も平林寺の弟子であり、私も敬山老師の最後の弟子となりました。敬山老師が遷化された後は、糸原圓応老師の弟子としていただきました。圓応老師には、兄弟皆子供の頃からかわいがっていただいておりました。普通でしたら、そのまま平林僧堂に掛搭するところでしょうが、まだ兄が在錫中でしたから、縁のある正眼僧堂を勧めていただいたのです。岐阜県を訪れたのは、そのときが初めてでした。前晩、長良の真福寺に投宿させていただき、昭和四十九年、四月十日に正眼寺に掛搭しました。
 卒業はしても、将来の道がさっぱり見えなくなってしまった。ならば見えるまでじっくり腰を据えようと覚悟したとき、この雲水という立場はありかたかった。見えなくなったものを見つけるために懸命になることができたわけです。
 
 
 
みえなかったもの
 初めての参禅のとき、耕月老師から、「休ソは、今は雲水としての休ソだが、同じ修行をするならば、正眼寺の休ソと呼ばれるくらいに修行しなければならん」と檄を頂きました。色々な挫折もありましたが、海のものとも山のものともわからない一雲水にこういう期待をかけてくれたということがありかたかった。もちろん後日談があり、老師は実は全員にこう言われていたのです。
 二年ほど経った頃、妙心寺派管長として小方丈に出世されておられた逸外老師の隠侍になりました。そのおかげで今日があるように思います。老師は本山におられるときに、必ず五時には線香を手に一人で妙心寺の山内の拝塔に出かけられていました。帰ってこられると内佛でお勤めをされ、我々の参禅を聞いていただきました。その日常底に今まで見い出せなかったものが見えてきたように思いました。本当のお坊さんの姿というものを見せていただくことができたのです。老師が妙心寺を退山された後も一年間隠侍をさせていただいたのです。昭和五十六年に逸外老師が遷化された頃には、副司寮を任せられていましたから、老師の密葬、津送に携わることもでき、老師の恩に僅かながらも報いさせていただくことができたように思います。
 それから二年ほどした頃、和歌山の興国寺の目黒絶海老師が倒れられたことから、在番の副司寮というかたちで昭和五十七年に興国寺に出向きました。寺には、病僧の老師と在家の弟子が二人、出家が一人おりましたが、法務全般を任せられ、住職としての経験も積まさせていただきました。昭和六十年に興国寺の開山様の七百年の遠諱があり、それに向けての諸支度、伽藍修復、改築工事から遠諱円成までの一切の番をさせて頂きました。その後、いったん正眼寺に帰りましたが、二年後に今度は住職として請われて昭和六十二年に興国寺に入寺致しました。
 平成五年に、耕月老師より代参の要請かおり、思えばこの頃より、老師ご自身お体に異常を感じておられたのかも知れません。
 
 
 
これからの青年僧へ
 ものを改革していくことができるのは、若い世代です。伝統を守っていくことも大切なことですが、ときどきにあわせて宗教者も変わっていかねばと思います。時代を「模索する」ということが大事なことであり、そのことを忘れないようにしたいと思います。伝統の世界にいることは、ある面で楽なことです。僧堂は大変なところだといわれますが、僧堂の規矩に沿っていくことは、そう難しいことではないと思います。そのまま自坊に帰ってからでも枯淡にやっている方もありますし、これはこれで尊いことだと思いますが、反面それは他者を寄せつけない姿勢にもなりがちです。青年僧として、常に自分の姿勢を法に照らして模索していく。これが根底にあれば問題はないと思います。そのためには、逸外老師もよく言っておられましたが、宗教者としての基礎が充分開発されていないといけない。そうでないと、上っ面だけで右往左往することになってしまいます。しかもその基礎を開発するということは、そうし続けるのだという道心を堅固にすることによってのみ可能です。そうして、その基礎土壌にどのように種を蒔くか、どのように水を加えていくかは、その人その人の縁の世界で決まることなのです。しっかりした基礎の上で模索していく。そのためには少しでも長く修行道場での伝統の「薫習」を受けることが、また大切でしょう。(足立記)
 
 
 
 
昭和二十四年十一月`東京都東久留米市出身。
昭和四十九年三月埼玉大学卒業。
埼玉県野火止「平林寺」白水敬山老師に就き得度
昭和四十九年四月「正眼寺専門道場」に掛搭
昭和五十一年 妙心寺派管長梶浦逸外老師の隠侍として随侍する。逸外老師が任期満了により正眼寺山内「了心院」に閑栖された後も、引き続き薫陶をうける。
昭和六十二年十一月 谷耕月老師ゆかりの和歌山県由良町「興国寺」の住職となる。
平成五年十一月 谷耕月老師の代参として「正眼寺専門道場」において雲水の指導にあたる。
平成六年十月  正眼寺副住職に就任。
平成六年十二月 正眼寺住職、正眼寺専門道場師家 正眼短期大学学長に就任、引一き続き由良・興国寺住職を兼任し現在に至る。