「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成30年4月〜】

 掲載号等  【第56号】:平成6年7月発行 

妙心寺派管長  臥雲庵 松山寛恵老師

「師父の思い出 いっぱいの甘茶」
 
    
 

 管長っていう看板で世間的には評価されるようになりましたが、急にそう中身が変わるかというと、そんなに変わってませんよ。私みたいないい加減な人間が、一応、そういう立場にたって、昔の立派な方々がきちっと役目をこなしておったように仕事ができるかどうかっていうことに対しては気をつけねばと思っております。まあ、何かにつけてみなさまに注目されますから・・・。
 今までも若い人には、丁寧に親切に懇切にお話してまして、まあときどき皮肉みたいなことを申し上げましたですかね。あまり放言ばかりしておると、活字にされてあちらこちらから支障が出るといけないなんてことも思っております。
 
 
 私の親はほったらかしでしたね。ただ、昔の人じゃから自分のやることはきちっとやった。わしは、別に坊さんにあこがれなんて持ってませんでしたけど、感化は受けとるでしょうね。皆さん方も厳しく育てるとか言うたって、年中小言ばっかり言うてればいいってわけじゃないから、寺のやるべきことちゃんとやってれば、自然に見習って来るんじゃないですか。
 親子としての子弟関係は純粋に小僧としての子弟関係とは違いますからね、思い出を話すと自慢話になりますけど、いま憶えていることを率直に思い出すとすれば、花まつりっていうとお寺であまちゃを沸かした。わたしらの頃、まあ戦争中だなあ、甘いものがないんですよ。甘茶っていうのは貴重品だった。あの当時は、こどもが一銭二銭のお賽銭を握りしめて、みんな喜んでもらいに来る。四月八日の朝、沸かした甘茶を本堂の前の桶の中にいれて置く。うちの和尚があまちゃを汲んで、持ってきた瓶にいれてやる。そうすると、どんなものを持ってきてもそれにいっぱい入れてやるんですね、たっぷりと。そうするとね、手伝いにきていたおばさん達とかが、お賽銭を一銭上げた人、二銭上げた人、あるいは大きな瓶を持ってくる人、小さな瓶を持ってくる人もある。それを和尚さんは、お賽銭をいくら持ってこようが全部囗いっぱい入れてやる。それはおかしい、やっぱり、どんな大きな瓶を持ってきても、一銭だした人には柄杓一杯でいいじゃないか、二銭お賽銭上げた人には二杯入れりゃいいじゃないかと・・・。これはその頃、こども心にも不思議でしたな。で、和尚はなんて言ったか、いやそうじゃない、大きな瓶を持ってきた人はたくさん欲しいから大きな瓶を持ってきた。小さな瓶を持ってきた人は少しでいいんだ。だから、お賽銭の多かろうが少なかろうが、それだけ欲しいんだからいっぱい入れてやって、お参りしていってもらおうと、そんなことを言うとったですね。いやあ、そういう理屈はないと思った。ですから、ものの考え方はいろいろあるんじゃなと思ってね。
 
 
 宇都宮時代
 大学を出てから、正直いいますとお経も何にも読めなかったですから、これではいかんと思いまして、お経の練習や袈裟の付け方など、親に教えてもらって身を入れて勉強しました。
 僧堂をひいてから、宇都宮の報恩寺に戻ったわけですが、妙心僧堂に出る前には安土の見徳寺、住職が大徳寺のまえ看雲室で、大徳僧堂にでるという話になりまして、いつまでも宇都宮でぶらぶらしておってはいかんということで二年ばかり留守番させられました。
 安土の住職が今の人に決定して、宇都宮に戻ったのですが、まもなく今度は僧堂の方に出なさいっていう話になりました。ですから、宇都宮は長いことありませんでした。私の親が住職でしたから、私は毎日お墓掃除をするのが仕事で、お掃除マンでした。
 
 
 
雛僧教育について
 
 お経のこと
 雛僧教育ということを思うと、一般の人はどう考えて居られるか知りませんけど、私か現場におって、僧堂にこの頃入ってくる新到さん。まあ、僧堂にきてからお経を練習するというのが今の若い人の常識じゃないですか。
 
 日常作法のこと
 それから、いろいろ日常のこと・生活上のことっていうのは、非常に今の若い人は不自由な点が多いんじゃないですか。そりゃあ、昔、小僧での生活を大寺でやった人なんかは、そういう日常のことは全部できておりました。
 わしらの頃ですと、おじいさんおばあさんが障子の開け締めから着物の着方、左前ではいけませんよ、障子を閉めるときも左前はいけないと、そういうことを今の子は知りませんよね。平気で左前にしている。障子でもなんでも、わしが後から直して行くんです。そういうのは僧堂に来る前に大体習慣づけておいてもらいたいですな。
 今の人は僧堂に来てから、いわゆる小僧の行儀作法や衣・着物のことを全部教えてやらなければならない。それで衣が身について一人前になるために三年かかる。ところが、三年までいないで帰っちゃう。ということは、小僧の一般的な作法さえ不十分なまま、住職資格を取ってしまう。だから、本山もそこそこのお寺の住職になるには僧堂に十年以上いなくちゃいけないぐらいの宗制を直さないと、住職の素質がどうしても低下する。そこで、住職研修をやらなくちゃならない。だから、雛僧教育の時点からいま少しきちっとやっていただければ僧堂歴を減らしてもいいんです。昔はそういう手間は僧堂のお師家さんにはいらなかった。ある水準までは小僧時代に覚えてきて、それから僧堂では参禅を聞いてやれば良かった。ところが今は、雛僧教育をやっていないのに、僧堂歴だけはなるべく短縮して住職資格だけ与えようという傾向が強いですけれどもね。
 
 禅林句集のこと
 それと禅林句集なんて全然覚えてませんね。そして、あれ読めませんね。今の人は英語やフランス語やドイツ語なんかはべらべらしゃべる人はいるんですが、禅林句集になると全然できない。そういう人が著語やると、最初の著語で半年もかかってるから、そうするともう、修行がいやになって来るんです。あれはいま少し僧堂に来る前にやっぱり禅林句集ぐらいは、全部暗記しなくてもいいから、読めるぐらいにしておいてもらうと、三年いて著語で半年も一年もかかるようなことはないと思いますがね。大学時代にアルバイトするより、禅林句集暗記するぐらいの勉強するぐらいでないと、時間があまったら。要するに漢字が読めない。若い人見てると。それが非常に参禅の場合に障害になる、それで前に進んで行かないんだろうと思うんです。
 昔は句双紙三年といって、句双紙というものを頭にしっかり入れるということが雲水になるまず前段階として基本だとされてきた。あんなものはいちいち本を広げて語を探すんじゃなくて、僧堂にいく前に本来は暗記しておくものなんだというつもりで、これは住職学ではなくて雲水学ですけれども、はっはっはっ。
 
 
 学校のこと
 僧堂なんかより学校教育の方が大切だという人も一部にはあるようですけれども、大体が坊さんとしての一般的な習慣までも、もう学校だけに任せているんですね。それならば学校もそれに対応したカリキュラムなりなんなりを、ただ先生の学問的な講義じゃなくって、日常生活のご飯の炊き方とか、味噌汁の作り方、あんまの仕方とか、掃除の仕方とかね、針仕事とか、昔の実践女学校的なことを雲水にちゃんと教えることがむしろ必要じゃないですか。
そういうことに対して、お寺の和尚さん方は自分の息子に対してあんまり関心持ってませんね。学校を卒業させれば息子は全部頭に入っているもんだと思ってますね。それと、お母さん達もそういう面では学校、仏教系の大学でも卒業すれば一人前の勉強をしていると思ってます。日常のことは案外学校じゃ教えてくれてませんね。
 
 
臨済の命脈は僧堂にあり
 なんで今、禅がこうやって一目置かれるかというと、やっぱりこうやって坐禅弁道しているものが幾らか残っているからで、それがなくなったら頼りないものになると思いますよ。まあ梶浦逸外老師とか山田無文老師とかのあの年代の人、あそこらまでがいいところで、われわれの時代になるとみんな青息吐息じゃないですか。僧堂のお師家さんはみんなもう命がけでやってるんですから、それに対して若い人があっけらかんとして住職資格取るために仕方がない2、3年僧堂にというんじや、僧堂のお師家さんは気の毒です。 世界の文明史的な意味において、東洋思想特に禅の含む内容というものがどれだけ関心をもたれているか。そういう視点からみて、まず宗門の若い人がそういうところに関心をもってもらいたい、まじめに。そして、自分がそれを担っていくんだという意識をもってもらわないと危ないと思うんですよ、将来。
 参禅はね、いかにして一般の人を悟りの境地に導くかという方法論がきちっと確立されている。いわゆる煩悩を転じて菩提の境地に導くかっていう、はっきりとした目標がたって、はっきりとした方向性をもって、はっきりとした方法論をもって悟りの道に若いものを導いていくという、そういう指導方針がきちっと、長い間の伝統で確立されておる機関なんていうのは、いまの専門道場の教育以外にありゃあしないんだ。それをまあ、あんなところは監獄と一緒じゃといって若いものは入ってきやせん。若い人が入ってくるか入ってこないかで、これはもう貴重な財産をみすみす殺してしまう、捨ててしまう。あれが崩壊してしまったらもったいないですよ、世界的な利益のあるものを。そういうものを案外若い人はいつでもそういうものがあるつもりでおる、いま値打ちを知らない。
 まず自分のお悟りの境地を開発するということに、理想に燃えてやってもらわなければならない。住職になるためになんていうのはとんでもない。はじめから住職資格みたいなものを目標にして、僧堂の履歴をとろうなんていう意識が、非常に強いんじゃないかと思う点があるんですが、みんながそうだとはいいませんけれど。
 本当からいうと、住職資格なんてどうでもいい、どこの寺だって構やしないんですよね。別に寺なんて持ってなくたって、結構説法して歩けば食っていけるんですから。また、自然にある程度しっかりやっとればどっかから誘いがくるんですから。やっぱり、いちばん根幹となるのは、純粋に解脱の境地を求め、なんかその自分の心の中で迷いのない納得の行く境地まで、修行をやり続けていくという意識をもってもらいたいと思うんですね。「いやとてもとてもわしなんかには・・・」っていうのは、はじめから自分を甘やかしているんだ。大事了畢までは退場せずっていいますが、ほんとなんですよ、そのつもりで、若いんですからそれぐらいの気持ちで純粋にやってもらわないと。