「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成30年2月〜】

 掲載号等  【第48号】:平成4年6月発行 

岡山 曹源寺 原田正道老師

「看脚下」
 
    
 

おいたち
 昭和15年に奈良の雲幻寺(現在の寺名は良玄寺)に生まれる。花園高校から花園大学へと進学。大学在学中に、無文老師との出会いがあり、その姿に強くうたれ、葬式坊主といった今までの偏見を見直すと共に、卒業と同時に老師のおられた祥福僧堂へと掛塔。
 
 
無文老師の思い出
 無文老師は、本当に表裏のない人でした。毎晩遅くまで、書見や提唱の準備を寸暇を惜しんでやっておられました。隠侍が夜坐しておる時間を見込んで、勉強するということだったと思います。臘八接心の晩に老師もご高齢だからお体も大変だろうと思い、あらかじめ布団を敷いて「お床をとりましたので、どうぞおやすみください」と言ったものの「バカヤロー、雲水達が命懸けで夜坐しておるのに、わしが寝られるかい」とどなられました。今でも肝に銘じて、自分がそこまでやれるだろうかと思うけど、そういう生きざまを教えられたのです。とにかく時間があったら、勉強せい、勉強して坐れ坐れと、絶えず身をもって教えておられました。目の前で囗で言われるだけでなくて、直に姿で見せられたということの方が大きいです。参禅の見解が通ったなんてことは、屁みたいなもんで、そんなことよりも、直の命を見せつけられたということが、私にとって強い参禅だったと思います。私は今でもそういう生きざまを失ってばならんと思っております。
 
 
 この世は
 市場のようなものだ
 人が集まるのは
 買うべきものが
 あるからだ
 買うべきものが
 なければ
 人は去っていく
 社会に
 必要なものだけが
 残るのだ
 宗教だって
 例外じゃないぞ
 偽物ばかり
 売っておると
 自然淘汰されるぞ
    山田無文老師
 
 
曹源寺への縁

 無文老師が修行された天竜寺の法系は、この曹源寺からの滴水宜牧禅師の流れです。老師も自分のご恩のある偽山禅師のお墓(法源)にお参りしたいと、時間を裂いてここにお参りになられたことがありました。ある時、曹源寺の先代が「私も年とったから、この広い曹源寺じゃかないませんわ」と言われたそうで、無文老師に後住の選任を頼まれたそうです。そのことが縁になり、当時道場に残っていた、一番古参だったわしがその任を任されることになったのです。
 
 
外国人雲水との不思議な出会い
 無文老師のもとに外国人の弟子が集まったのは自然の流れです。その当時、英語ができる老師は無文老師しかいなかったので、自然と外国の人が集まってきたんです。無文老師がよく言っておられました。「道心というのは、道を求めるということであり、日本人にも道心はあるが、海を越えてくることだけでも大変なことだ。道を求めるのに艱難辛苦を厭わずだ。海を越えてくるにはそれぞれ覚悟がいる。自分の生活など切り捨てなければやれん。それだけでも立派なものだから、その決意を大事にしてやらなければいけない」と、そういう中でわしも育ってきましたから、自然と自分の考え方の基礎になっていったと思います。
 曹源寺に来てみると建物は傾いて雨漏りがする。草は生え放題の状態でしたので、何とか使えるように…と思っていたところへ祥福寺から2、3人の外国人の弟子が来てくれました。それから少しずつと外国人の仲間が増えていきました。自然と増えてきたのです。
 私が入寺して明くる年に東西霊性交流が曹源寺でも行われることになり、建物もなんとかせねばならないと、修理しているうちに段々と今日の基礎が出来てきました。みな、自然の流れの中で、この場所と時期と人が自然に集まってきたというのは本当に不思議なことです。
 彼らとは参禅だけは英語でやりますが、日常は日本語です。提唱も日本語でやります。通訳は無文老師に十四年間参禅していたプリシラがやってくれます。この人は専門的に耳ができておりますから…。この人がいなかったらここまでできませんでした。こういった通訳は、経済とか科学などのそれと違って、
 「こころの通訳」ですから体験がないとできないからです。
 日常は午前3時40分に開静。1時間30分の朝課を勤め、坐禅、参禅、作務を午前中にこなします。午後からは各自の特性を活かしてその人の学ぶべきものを習わせます。例えば弓道、陶芸、表具、尺八などをマスターさせるようにしています。
 
 
住職としての認識
 霊性交流で知りましたが、ヨーロッパの修道士の方は、自分たちの生涯修道を基本姿勢にしてみえます。彼らは、「日本の和尚さんたちの禅堂での修行は確かに素晴らしいものがあるのですが、自坊にはいってしまってからの修行はどうしているのですか…」と尋ねます。
 宗門的に言えば「汝等請う其の本を務めよ」という姿勢が、和尚さま方の中にどの様にあらわされているか・・・住職研修とかいった対外的な工夫はおおいになされているが、自らの体内的な反省が問われていないと思うのです。
 
 
これからの寺院経営
 今日の寺院経営が安定して崩れることは早急にはないと思います。が、しかし体内的な自己の在り方ということに対して我々が答えることができなければ、これは当然一般社会の人の目に写っている世界ですから、檀信徒の方々の胸の内にも「我々とどこが違うのだろう」という思いがあると思うのです。修道士の尋ねる「自坊にはいってしまってからの修行はどうしているのですか・・・」ここのところが今日の我々の課題ではないでしょうか。