「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成29年11月〜】

 掲載号等  【第36号】:平成元年4月発行 

岐阜市 瑞龍僧堂師家 清田保南老師
「年1回でいい 大接心に参加せよ!」
 
    
 

○ご出家の動機について
 

 私は神奈川県寒川町と言う片田舎の洋品店の息戸に生れ、兄弟七人、上の三人は幼くして亡くなりました。その為に小さい頃から人様に頂戴物をしますと必ず亡くなった兄姉達にお供えしてからでないと食べさせてもらえなかったものです。母親も毎日店を閉めてから「亡くなった子供達が見守ってくれているお陰だ」と言ってお仏壇にお礼のお詣りをするのを見て育ちました。又私の家の裏が真言宗のお寺の墓地でして、そこが遊び場でもありましたので、しょっちゅう埋葬の様子を見る機会があり、その度ごとに遺族の泣き悲しむ姿を面の当りにした事も無意識のうちに出家の引き金になったと思います。
 
 しかし直接の動機は、私か16歳の時、ふと自分のこれから先の人生を考えた時、結局人は死んで灰になってゆくだけではないかとい遺りの場の無いむなしさを感じた事であります。何とか解決の糸口を見出そうと色々な本を読む中で鈴木大拙先生の本にめぐり合いました。当時の自分の心の悩みにピッタリ合ったものだと感じ、難しいながらも懸命に読んだものです。
 
 それが私と宗教(とりわけ禅宗)との出会いであり、出家への道が繋がったのです。具合の良いことに私の兄の友人に禅宗の坊さんが居て、その縁で正眼寺の逸外老師にお目に掛かることが出来、正眼短大を経て、正眼僧堂に掛塔したわけです。
 
 
 
○寺の子と在家出身者について
 

 修行においてどちらも一生懸命やっている点では同じだとは思いますが、やはり寺の子供は生れた時から線香のかおりを嗅ぎ、お経を聞いて生活してきておりますので、所作一つにしても自然に身についているようです。ところが私のように途中からお坊さんになって者は、どうしても俗のにおいがしみ付いて、それが抜けないのです。私にとってこの俗気を取ることが一つの大きな壁になりました。なんとか線香のかおりにも馴じんできたと感ずるのは、ごく最近のことです。
 
 それと在家出身者は、よく考えると帰るところがないのです。その点寺の息子は、なんだかんだと言っても煎じ詰めれば帰るところもあって、しかも最近ではそれを迎える側の親も簡単に受け入れてしまう甘さかがあるように思います。親の方がもっと追いやってもらうような姿勢が大切でありましょう。したがって、強いて違いがあるとすれば、帰るところがない在家出身者は、修行の過程においても乗り越えなければならないいくつかの節目節目にぶち当ったときのガマンが違うのではないでしょうか。
 
 「ならぬ堪忍するが堪忍」というような、ここ一番という時の踏ん張りは、やはりせっぱ詰まった境遇の中から養なわれるものであると思います。
 
 
 
僧堂は永遠の道場

 いつも研修会をなさったり、機関紙を発行されているのを私も興味深く拝見し、ご苦労さまだと思っております。
出来ればそれらの活動に加えて次のようなことをPRしてほしいと思うのです。
 
◎年に一度は修行道場の接心に
 
 それは、「和尚になって寺に住職をしてからも、年に六回あるうちのせめて一度だけでも自分の出た僧堂の大接心に行きましょう」ということです。
 
 世間の人たちは、我々お坊さんに対して自分たち在家の者には無い何かを求めているのです。それは日頃何かにつけ儲ったの損したのというゴチャゴチャした世界で生きていては得られない、僧堂の坐禅修行でなければ養えない『徳』であろうと私は思うのです。この「徳」というものは、大接心によって禅堂で黙々と坐って築き上げていく以外にないと思います。
 
 ですから、少しでも自分の出た僧堂の大接心で『徳』を養い世間の人たちの要求に応えることもさまざまな方便と同時に大切なことであろうと思います。しかも、これは貯金のように溜めておいて少しづつ小出し出来るようなものではありませんので、毎年々々の大接心において自分がその聖域の部分を体験し、そこから逃げ出さずに取り組み、護持していく以外に手はないと思うのです。
どんなに有り難い説法を聴くよりも、禅堂の中で黙々と坐って得るものの大きさというものは、ほんとうに計り知れないものがあるのです。この思いは、修行をしたことのある人なら必ずわかるはずです。
 
 僧堂というところは、ちょうどお嫁さんから見た「実家」にあたるところだと思ってほしいのです。自坊で何らかのトラブルや問題にぶつかった時などには、気軽に実家にやって来で「ちょっと一週間程おいてくれ」といって若い雲水たちと一緒に坐れば、誰に尋ねなくてもちゃんと自分のすすむ道が見えてくるのです。
 
 一度僧堂を出てしまったら、せいぜい開山忌か斎会の時にだけ出入りするのではなく、いつでも気軽にやって来て禅堂で坐らせてもらうというのが本当のあり方であり、それが常識になってほしいのです。私ども僧堂にいる者にとって、どれほど嬉しいことであり、励みになることか知れないのです。
 
 これから新しく掛塔してくる者だけでなく、出て行った人にとっても「永遠の道場」でなくてはならんと思うのです。
毎日忙しい忙しいといっても、年に一週間ぐらいの時間が作って作れないはずはないと思います。現に僧堂とのつながりがお坊さんに比べて少ない居士さん方でさえ、自分の大切な有給休暇を全て大接心のために使う人もあるのです。「医者の不養生」という言葉がありますが、私は「禅宗のお坊さんから”坐る”ことを取ったら何にも残らん」と思うのです。
 
 私を導いてくれたお師匠さんは、「坐禅」だと思っております。事実坐禅のお陰で、今までもいくつかの壁を乗り越えてこられました。”坐禅を組めば、必ず道はひらけてくる”のでず。
そこで最後にもう一度申し上げますが、是非とも年に六回もある僧堂の大接心の中のたとえ一回でもいいですから参加して、禅宗のお坊さんとしてもっともっと坐に親しみご活躍いただくことを切に希望いたします。