「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成29年11月〜】

 掲載号等  【第35号】:平成元年1月発行 

国泰寺派管長  澤大道老師
「おのれこそおのれのよるべ」
 
    
 
○国泰寺派管長就任のいきさつについてお聞かせ下さい。

 昭和五十年頃、私は相国寺僧堂におりました。その頃国泰寺で開山国師の生誕七百年祭があり、それに合わせて授戒会が行われるということで、僧堂から国泰寺へ加担に来だのが最初です。
 相国寺と国泰寺とは昔から緑が深かったのですが、その後、私が中国に三年間留学していた時、止止庵老漢より「国泰寺の管長推薦依頼が来で考えた末に推薦した。それを国泰寺が受けたから行ってくれ」と連絡を受けました。相談をうけたわけではありませんでした。
 
 
○最近お寺の税務の問題がうるさく言われるようになりましたが、我々が頂く”お布施”について老師はどうお考えですか

 一つには日本の寺の在り方によると思いますが、一般の寺は道場のように僧だけが集って生活している訳ではなく、家庭というものが中に入ってしまっている。そういうことが関わっているので問題が難しくなるのだろうけど、お布施を頂くこと自体に問題はありません。葬儀の時などお布施をいくら包んだらよいか問われる訳ですが、「決めておりません。それはお心しだいです」と言うと「たびたびあることでもないから解からないので目安を教えてほしい」ということになり易いですね。
 お布施が和尚の食費とか生活費に使われるのは、当然ですが、今はそうでないものにまで流れ易いのでそこが問題です。受け取った側がそれをいかに使うかが問題になる。これを生かせる使い方が出来ればよいのです。
 
 
○一般の人々は、禅宗の教えは解かりにくく取っつきにくいと考えている人が多いと思いますが、そのような人々に対して我々青年僧は、どのように仏教を説いていけばよいでしょうか

 仏教の教えの根本から言うと、教学とか何とかいうよりも、実際に我々が生きてゆく指針となるものがよいと思います。皆があまり解からないというのは、宗教としてまちがいだと思います。他のどの聖典を見ても解かり易いです。経典も元はそうですが、漢文では読んでいても聞いていても、さっぱり解らない。それを解り易くしたいと思います。教学的にやると難しくなるでしょう。『坐禅和讃』や『法句経』などは、その点少しは解り昜いからよいと思います。我々の宗門の方では、「まあ坐れ」ということになり、またその体験が基本ですが、全て他の人々に対してそれ一本ではそろそろいけなくなってくると思います。
 今の檀家制度にも、自分が何宗だか、本山が何処なのかも知らない人がいるという現実があります。そうすると、もっと解り易い事を説いていくべきだと思います。
 一般の人々に「ただ坐れ」とか「提唱」という形で聞かせても意味がないと思います。ですから私は『法句経』とか経典の中でも和訳したものを出来るだけ使っていくのがよいと思います。
 
 
○最近、教育や福祉や救済活動等、社会の各方面より宗教家への期待があり又、実際に活動をしている宗教家がありますが禅の立場から見た時。老師の御意見をお聞かせ下さい。

 自分を内に求めていくのは禅僧として当然ですが、外にそういう活動をしていくことは、その活動をしていく上で当然そのはね返りが出てくる訳です。
 宝をじっと抱えているのも大事かも知れませんが、外で他山の石を借りてくるのも意義があろうと思います。何か活動すると必ず摩擦が出てきます。そこでまた、自分というものの在り方を考え直さなければならないものです。そういう意味で積極的に困難にぶつかる事は大事なことだと思います。
 しかし、誰もがそれをやらなければならぬ、という言い方はまちがっています。難民救済がいいのか、どういう活動がいいのかは解りませんが、大いにやるべしだと思います。臨済宗に限っていえば、このような活動はまだ足りないと思います。
 
 
随處に主と作れば、立處皆眞なり
 
○仏教は、さまざまな思想や風俗を取り入れて、一層複雑になり理解し難くなっています。仏教以外のものを取り除いてしまえば、すっきりすると思いますが、いかがでしょうか。

 仏教は外のものを次々に取り入れ融合して発展してきました。インドからそうでしたし中国で生まれた禅自体、特に作務などを取り入れて、インドの在り方とちがってきました。
 仏教は基本的にそういう性格があります。そして世界を作った神というものがいませんからこの世の在り方にいろいろの解釈があります。現在日本にいろいろの仏教宗派がありますが、言い表し方がちがいます。仏教は、その時々、その土地、文化によって在り方がちがうのです。
 日本の風土で排他的なやり方をすると問題が出て来ます。日本の社会が、あまり宗教を問いません。結婚の時すらも、あまり問いません。よそでは大きな問題になるのです。
 これから特に西欧との霊性交流などもありますので、仏教の特質を生かしてゆけると思います。
 仏教は日本の文化社会の在り方に合っていますから、仏教以外のものを別にする必要はなく、そのままでよいと思います。
 
 
○現代に於ける我々出家者の在り方は、葬式仏教と言われたり兼職をしなければやってゆけなかったりで、このままでよいのかという大きな疑問があります。老師の御指導をお願いします。

 出家の本源から言えば、托鉢でやっていくのが正しいわけです。出家とは本来そういうものであります。
 しかし、日本に入ってこれだけのものになっています。一人二人なら、そういう形でいいが、全部をそのようにはいきません。
 私は田舎の小さな寺で、自分で出来るだけ野菜などを作ってひっそりと暮らしたいと望んでいたから、こういう所(国泰寺管長という立場)には来たくなかったのです。しかし、いろいろの因縁で、こういう立場におかれてしまいました。個人的な私の思いを他の人に言ってもしかたがありません。それぞれの寺の状況が全部ちがいますから。すると、これはもう、こういう形というような完全な形がないのです。
 すると、最終的には、本人が自分はどういう形でいくのかということを、自分で決めるしかないのです。
臓器移植の問題も脳死の問題もそうですが、最終的には、自分がどれを選ぶか、自分が選択をしなくてはならない時代が来ているのです。
 例えば、寺がやっていけないので就職して勤めている、という形が禅僧としての在り方として自分が納得して選びとれるか、それをいかに生かせるか。あるいは、その勤めの中で自分がどれだけ打ち込めるかだと思います。
 衣を着てお経を読んでいる、坐禅をしている、だけが正しい在り方というものでもありません。
 住職というものを、仕事として割り切ってしまう。仕事であるならプロにならなければいけない。そう自覚してお布施を正当な財価として受け取る。
 これらを、いかに自覚してやるか、最終的には、それしかないと思います。
 本人が、自分は一人の道を求める者としてやっている、ということを自らに納得出来ていれば、どんな在り方でも、いろいろな問題も、誰が何と言おうとよろしいと思います。
 これが自分なりの一禅僧の在り方なんだと、それがあればよいのです。