「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成29年10月〜】

 掲載号等  【第30号】:昭和62年10月発行 

静岡 臨済僧堂師家 鈴木正因老師

「自己を生かしきる 」
 
   
 

世間の若い人たちは、無宗教だとか、人間の尊厳、心の大切さを自覚していないなどと言いますが、お寺の若い人の育ちも良すぎる。

お坊ちゃんですよ。違いますか。

それぞれに階級のついた寺の住職、副住職になると、そこでもう、あそこは別格地だとか、三等地だとか、社会的な階級が付く。無階級を叫ぶにも、すでに難しい状態になっている。まったく窮屈な組織です。

会合があっても、そこに長老が居ると、言いたいことがあっても黙ってる。普段から肉山の和尚の寺へ役僧に頼まれて行ってると、片方はいつも頭を下げる、型が自然にできてる。長いものには巻かれろ主義的な要素が一番強い。

人間の絶対平等を説いても、自分たちがやってなければ、人はついて来ませんよ。

案外ルールを知らないのが、坊さんじゃあないかな。

 

 

自らが手本で後継者を育め

我が子を後継者に育てようと苦心されているようですが、家族が一緒の寺の生活では難しい。

お医者さんでも自分の子の診断は、難しいと言います。

小さい子には、言葉で教えるより、一つ一つやって見せなければならないでしょう。

私は、小さい時から坐禅しろ、参禅しろといつも言われてきた。そういう環境の中で育ってきた。

朝二時頃起きて、峠を越して十分ぐらいの所に参禅に行くのですが、楞厳咒の朗々とした声が、谷底から響くような感じで聞えてくる。引き込まれてゆくような感じでした。師匠は、囗を開けば坐らにゃあならん、坐らにゃあ駄目だと言いましたね。それに対して、何の抵抗も感じなかった。経済的には、何の保証もない寺です。

米が無くなりゃ米のくれそうな所に托鉢に行く、帰ってくると喚鐘打つ。朝は一緒に朝課よむ、茶礼をする。毎日が接心でした。

大勢集めて教育するのでなく、一人だけ後継者を作ろうと力説し実践された方でした。坐ることの大切さを身体で感じ、共に坐り共に托鉢し、子弟に隙を与えない師匠と夢中で過せた事が幸いでした。

小さい時誇りを持って何かをするということも重要です。

今のボーイスカウトのように、ユニフォームに誇りを持って、する事に喜びを感じることが大切でしょう。統一したバッチを付けてやるとか。

型から入るといったって、いきなり僧堂へ行って法衣を着るということでなく、段階的に小さい子たちが信じるもの、これから親父の跡をとって行くんだという自覚を持たせてやることが大切でしょ。

生れた時から洗脳教育というか、野球でいえば、ベンチに入れないような下積みの者で、黙々とやってる姿の方が力強く、コッコッ相続していくことの価値を喜び合う良いムードを作ってやることこそ大切です。

 

 

親のご都合主義を見抜け

各寺で子供坐禅会をやる。子供たちが坐ることを覚える。自分の家で坐ろうとしても家が坐る環境にない。悲しいけど現実だね。

坐禅することに重きを置いてない。行儀悪いから、言うこと聞かないから坐らせてくれとか、親のご都合主義で寺に来る。

ある人に任せておけば良いという流れが強いね。

 

 

目的を明確に示せ

坐禅をしなさいと言って、理屈なしに入れる人は良いけど、入って来ない。理屈がわかった頃は、もう坐らない。どこの寺でも初心者が、坐り方だけ覚えると来なくなっちゃう。あまり簡単すぎるのか、その相続ができない。

禅とは何かという事を、一応学術書などを見ちやった人は、坐らない人が多い。

誰にもわかる統一されたものが必要なんだ。

スリランカの人など、「あなた、釈迦牟尼を信じますか」、と言うけど、日本でそういう質問を受けた事はない。大乗を説くなら、大慈悲を説くなら、「ブッダを信じますか」、という言葉が出てもいいと思う。信じなければいけない。信じさせなければいけない。

病院などでの靴の脱ぎ方、食堂での食事の態度は、情けなくなる程乱れている。人々は、それが大切な事と気付いていないし、全々神経使わない。

年寄りだけが、と言うけど、手を合せる、掃除をすることの価値に目覚めるのは、普通の人は、その頃にならないと、できないのじゃあないだろうか。

寺に押し込められて声が届かないもどかしさはあるが、この風潮を改めて行く務めが我々にある。

そうかといって禅宗の場合、坐禅する以外には無いですよ。懺悔、相続を年中絶やさない為にも、坐るごとしかないですよ。

 

 

時流の変化を見誤まるな

私も若い頃は、“概成宗教は、何をしとるか”と叫んだ方でした。それが変ってきますよ。

法要だとか、葬式だとかを馬鹿にする人も居るけど、それは違う。四十、五十になって、自分かその立場になっても出来ることじゃあないです。儀式一つでも尊いものです。

拝をすることですらできない。馬鹿にしたからといって、ずい分自己流のいい加減なことをやってる。

修行時代でも、こんな主観的な事やっていて良いものかと、煩悶は随分あった。やめようと思うが、あっ誰か居る、自分一人じゃあない、一緒に頑張っている人が居ることが、自分との闘いの励みにもなった。

和尚への尊敬が薄らいだ中での布教が、難しいといいますが、昭和二十年頃は、「なんで坐禅なんか」、なんて笑ったですよ。坊さん仲間ですよ。軽蔑の眼ですよ。

お葬式今月いくつありましたか、お宅檀家何軒ありますか、という物差しで価値感決めていく。肉山の和尚たちです。

小さな小僧でしたが、何糞覚えていやがれ、何だこの坊主は、とお茶出しながら思っていました。

自由、人間の尊厳など、つい数十年前迄は、囗に出せなかった。その点すごい時代でしたよ。

我々は、徒弟制度の時代、今はその囲みを外された時代ですね。大きな変化の時代の流れの中を生きてきて、僧侶が、現実をしっかり観て、求めに応じられる心構えをしている必要を感じます。

 

 

自己を生かしきる

これからは、禅が重要視されるようになる。

しかし、何も自分の実力以上のことをやろうとする必要はない。

その人なりに務めて行くことが良いことです。それだけでも、自分自身を投げ出していることです。

お互いに自信を持って、信じて行じてゆくことが、尊い姿だと思います。

僧堂だって、生活していること自体が修行であって、教化している姿です。

真理といっても、それを表す言葉があるかといえば、それは無い。

檀家何百軒だろうと何十軒だろうと、自分のできる範囲内でやるという事が、一番大切です。

看板挙げると、その看板が気になって、重荷になって動きが鈍くなる。坐禅会一つでも、自分のペースで気楽にやる方が良い。都合の良い時お坐りなさいといった方が良い。力みが入ったり、改まっちやうと、お膳立てが大変で、それに振り回されちゃう。

何人来ようとそんな事、第二第三の問題ですよ。縁のある人が、二、三人でも共に行じてゆけば、それが又天下に轟いてくる。そして、又人が訪ねてくる。来なくても良いんです。この寺の本堂は開いているんだ、お和尚さんは坐ってるんだ。檀家の人は、来なくても見てますよ。寺は、そうゆう縁のある場所です。

その和尚なりに、一つの特徴を持って、毎日版を一回打つとか、あるいは、昏鐘を必ず打つとか、一つの事を相続するということが良い。何も八方美人になることないでしょう。

看板出さないで、それなりに務めている人は尊い。本当のことを本当にやっている人といえましょう。(文責編集)