「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成29年10月〜】

 掲載号等  【第29号】:昭和62年7月発行 

京都八幡円福僧堂師家 西片義保老師
「モラル無きは宗教家にあらず」
 
   
 

宗教家のモラルは、禁欲だ。
 戒というものがある。それを守らにゃあいかんという、自分に対する心構え、その痛みがあるか無いかが大切だと思います。
 比丘の二五〇戒、比丘尼の三四八戒といいますが、現状に合せたことは、やらなければいけないと思います。
 例えば、肉を食べにゃあいかん時、只、当然のことのように食べるのと、あゝすまんなと、到底許されないと思って合掌する。そこが宗教家として、本物か偽者かの岐れ目ではないでしょうか。日々の反省が無くなったら終いです。
 痛みを感じなければ、在家の人達から、「法衣着てるだけじゃあないか。俺たちと何も変った所無いじゃあないか。頭を下げるのは、法衣に対して下げるんだ」、と言われ、一ぱいでも入ると、たちまち馬鹿にされることになる。
 「これではいかん、これではいかん」、と自分に言い聞かせる厳しさこそ、宗教家の生命でしょう。
 
 
骨山の根性
 毎日葬式や法事をやっている方々が如法だとおっしやいますが、本来から言えばどうですかね。
 こう言っちゃあいけんが、観光寺院の方も、ぬくぬくとしている。
 悪いとは言いませんが、宗教家のモラルは、禁欲であるから、私たちは、世間の人より質素な暮しをせにゃあいかん。
 世間並というけど、都会の寺は世間より良い生活をしている。これでは、力は出ない。質素にしていれば、聖なるものに続いてゆく生活をして行ける。お寺を職業としてはいけない。天職とする。
 壇家の少い寺に坐り、農協、学校、役所などに働いておられる方は、大切だと思います。大いに誇りを持って下さい。生活だけの為に務めていたのではいかんが、その場を生かして仏法を広めるとか、食事の前に手を合せる、出勤の時間をキッチリ守る、履物を揃えるとか、それなりに成り切った禅的な生活をすれば、自ら皆認めます。そういった僅かの事が、積り積って大説法になるんですよ。
 囗でうまいこと言わず、背中でもって人を導くという、その気持が一番大切なんです。小さい骨山に頑張っていること自体が尊いのであって、自ら備っだものができてきますよ。
 
 
本分の精神を失うな
 世間一般では、学問が尊ばれることが主流になっています。学問は、勿論大切です。時代が下れば下る程、体系的に普遍的に伝えなければならないけど、本物を追求するという精神を失ってはいかんと思う。学問となると精密になってくるから、そこに迷い込んでしまうと、真宗でも念仏が疎かになってしまうという。
 禅宗の法衣着て、禅宗のお経読んでも禅宗坊主といえない。一日十分でもいいから朝課の後でも坐ると、必ず壇信徒を引きつけるものが出て来る、と私は思う。自分に厳しく切磋することが大切。人は見てるんです。
 やはり、宗教家に求められているのは、俗から離れた聖なるものです。我々は、仲々得られんけど少くとも、形を通して、聖なるものを見せんことには、どうにもならん。その姿勢を保っていると、そういう人が集ってくる。説法も大切なことです。リフレッシュし自分を振り返える事になります。喋べることは、自分を確めることです。
 維摩の一黙と、黙っている人も居ますが、やはり、自分を確めるには、ある程度喋らにゃあできない。それには、無心になる事です。
 相手と一つになる。無心とは仏心で、自他不二です。相手の悲しみは、自分の悲しみという根本を忘れて技術に走るから誤るのです。
 
 
神仏を振り回していないか
 反論できない事を声高に言うのは問題です。仏とか神とかという言葉をあまり振り回す事は、自分に力の無いことを表していることになるのではないでしょうか。
 旧日本軍の天皇陛下のように、絶対的なものを持ってくるのは、ある意味で卑怯ですよね。一刀両断に解決できるものは無いのです。人間は皆、ドロドロしたものなのだという事を理解しなければいけない。
 
 
悩むことの大切さ
 何度逃げ出そうかと思った。やるか、やらないかは、本当は僅かのことなんだ。あっちへ行くか、こっちへ行くか、そこに踏ん張るかどうかの事なんだ。私は、とことん迄やりたかったし、夢中でした。きついし、何度もこんな所で貴重な人生を費し、肥えたご担いでおって良いものだろうか、と悩みました。悩むことによって人間の巾は、広がってゆく、悩むから人間は、バランスがとれてゆく。耐えてゆく、悩むことは大切な事です。悩む人間は幸せなんです。悩まん人間は恐いな。それをどう解決するかは、自分自身だと思います。他人の失敗は、自分の失敗なんです。
 
 
坊主は乞食、上座に坐るな
 「どうしても社会的地位のある方に頭を下げがちですけど、そうしやあないよ」
 「寺は、半端者が正客なんだから、半端者が主客なんだから忘れちやあいかん」
 「坊さんは、乞食なんだから、決して人の上に坐っちやあいかんよ」、
 と常に雲水に言うんです。
 なまじ人様から老師なんて低頭されると、ついその気になってしまうから、“私は偽老師、坐禅職人なんだ”と常に自分に言い聞せているんです。だから表に立っちやあいかんと常に思っています。人間は、弱いものだから表に立つと実力以上に自分を思い込む、人も思ってくれるものですからね。食事でも私は、自炊です。
 人間は、いくらやっても自分以上のことは喋れんし、行えんし、何をやろうとしても自分以下の事は出来んのだから、飾る必要はないんです。
 
 
あせれ、のたうち回れ
 若いエネルギーが無きゃあならんし、あせらにゃあいかん。
会社でも何でも、トップの人は、気が短くてあせるから力が出るんだ。即今の問題が無くちゃあいかん。今、この時しか無いという気持が無いといけない。
 人間なんてものは、のたうち回って生きているんだ。私も何度も大病しています。新興宗教に入る老人は、現世利益に弱いというが痛みを取ってほしいのだ。「大変だなあ」ではいかん。痛い所を摩ってやらにゃあいかん。それが一つに成り切っている姿です。
 
 
最後に物言うのは、祈り
人間と動物の違いは、理性だなんて言うけど、祈りです。本当にギリギリの所に行ったら、祈らずにいられないですよ。ガンで死ぬ人、七転八倒している人にも祈りしかないんです。祈ることによって、人間は、大きな力が出てくる。真の力が出てくる。
自分の大慈悲心さえ持っていれば、水子の供養はいかんなどと言う事はないと思う。そこから出てくるものは、何であっても、何にでもなる。
 
 
金にならない経をよむ
 私は、師匠から“お金にならないお経だけを誦む坊主になれ”と言われました。一所懸命に修行して本当の力が付けば、お金になるお経は誦まんでも済む。これは、お金をもらってはいかん、ということではなく、お金に執らわれるな、ということです。お金を貰うのに卑屈に思うのは、如法に生きとらんからで、精魂込めてお経誦んだら淡々として受け取れます。
 命懸けで誦まんものだから、こんなに頂いていいのかなと思う。淡々といったらいい。歴史的な成り行きなんだから。木来は、こうなんだが、自分はこうだ。本来を忘れてはいけない。当然と思ってはいけない。
 
 
禅は、特別のものではない
 生活そのものが禅なんだ。これは一寸誤解され易いんだが、正法不二と臨済禅師は、おっしゃっている。修行せん人に限って、何処で何年坐ったなどと、過去の修行を鼻にかける。釈迦も達磨も修行の真最中なんだ。
 学生時代に英語を習う。卒業して三年もすれば、皆忘れている。修行もそうなんだ。しかし、今が大切なんだ。日常底の一つ一つの事を丁寧に務める事が、背中で説法する僧に、自分を高めて行くのです。痛みを知り、感謝を忘れず優秀な後継者を育てる僧であって下さい。
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