「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成29年9月〜】

 掲載号等  【第28号】:昭和62年4月発行 

竜沢僧堂師家 鈴木宗忠老師
「喝 〜やる気があれば何でもできる〜」
 
   
 

老師、青年僧に一喝を
 
眼を開いて現実を見る

 世界は、今大変な時を迎えている。日本も今、明治維新の時と同じだ。北と南、東と西というように対立の世界から一つの大きなものに成ってゆこうとしている。白も黒もない、違いを越えた一つのものに向って進み、より良い世界が本当の禅を求めているのに、若い和尚にチャラン・ポランが多い。何故かわかるか。
 
自分の未熟さを考える
 三年や四年の僧堂の修行で住職したって、役に立たんのが当たり前だ。役立つと考える方がおかしい。
 どこの社会で三年や四年の経験で会社なりの経営者になれますか。そんな所ありゃせんよ。もう少し、せめて十年位在錫してから寺に帰るべきだね。
 竜沢寺の境内に杉や桧が植えてあるが、一年や二年では、とても細くて使いものにならん。三年、五年たっても五寸角の柱は取れんよ。何十年もかかって、やっと細い柱ぐらいしか取れない。
 今、信者の寄附で二百石程の杉、桧をいただき、雲水総出で皮をむいて製材の作務をしているが、やはり、自然に生かされて、骨折って、四寸五寸の木になっている。使えるものになるには、それ相当の年月がかかる。玄峰老師や宗渕老師の代に植えられたものでも、三寸、五寸の柱は、とれない。その間、どれだけ多くの雲水が起単していったことだろう。
 
人材の育成は、並大低でない不断の努力の覚悟が必要
 雲水が育ち、住職するということは、何年もかかる。社会の人々もやはり、それぞれの分野で修行している。寺に帰っても衆生済度できないし、住職しても現実が眼に見えない。それにすら気付かない奴がいる。世間の人々が、馬鹿にする僧が多いのも無理ない。元々力が無いのに、格好だけつけようとするから、終いにゃあ自殺せにゃあならんようにもなる。
確かに母親の胎内で育くまれた時から仏飯をいただいて来たといえば、長年月寺院生活をしているのだが、親の和尚自身が、喜んで住職を拝命していない。残念ながらこうした和尚が実に多い。「この子はお坊さんにして、しっかり育てよう」という願心が和尚に少ないし、感謝を忘れて、「つまらん、つまらん」と言いながら住職している。仏心が無いんだ。こんなこと言ってはいかんと思うが、つくづく思わざるをえない。
 世の中、どんどん不景気になる。その時、汗も流せなかった奴に何かできるか。四十才前だったら、もう一度再掛塔してやり直せ。真剣に坐る蓄積が勉強だ。
 
 
○老師ご自身の経験をお聞かせくださいませんか。
 私の家は、財産皆喰われてしまった。私は、囗減らしの為に、縁あって、岐阜のお寺に、ほうり込まれた。何度か逃げようかと思った。しかし、師匠に学校出してもらってたし、それに私には、腹違いの妹が1人おった。親戚の家に行って女中やってた。小学校も卒業してない。それ聞いて、間違った心を起してはいけない。この道を進むべきだと気がついた。十八才の時だった。
 
 
○老師にとって、苦しかったこと挫折感を味わったこと、差しつかえなかったら話して下さい。
 生きようとして、生きられなかった。死のうとして死ねなかった。只、こうやって生きてきた。只自然に行くより他なかった。只、コレ、コレ、だ。逃げちゃあいかんよ、逃げちゃあ。
 
 
○未熟ながら実社会で現実と取り組んでいる青年僧に、一言アドバイスをしてください。
 もう世に出てしまっている者は仕方ないけど、汗水垂らさにゃあいかん。土方でもなんでもやる。その中で、自分を失わないことが大切だ。動中の工夫は、静中の工夫に優るというだろう。その中で相続してゆく力を身につける以外ない。書見もすれば、作務も大いにやることだ。
 大自然の中に、生かされていることを忘れない。物を生かして使う。これを和尚が実践する。囗先きの言葉だけでは駄目だ。
昨年暮れに、充分使える畳を、百八十枚いただいた。焼却するというものを供養してもらったんだが、使えるものを捨てるというんだ。向うの新しい東司の便器も皆捨てたのを、もらって来て取り付けた。物のありがたさを、全く忘れてしまっている。感謝が判らんのだから仕方ない、生命がどれ程無駄にされていることか。消費が美徳と言うから、わかってない。
 
 
○世の中全体が、そのような風潮で、和尚もその流れの中に入ってしまっていますが、
 そんなもの逃げ口上だ。回りがぜいたくになったからとて流されることはない。生命を大切にしなけりやいかん。欧米の現実もそうだ。神父が大衆と話し合う時、人々の悩める問題、苦しみに正確なアクションや答えが出来ない。それで人々が、失望して坐禅を始めた。キリスト教でも教祖は行者だ。我々の宗教界でも同じことだ。坐らにゃあいかん、形だけの坐禅では駄目だ。本当に裸になってやらんといかん。坐禅をしているという政治家が問題発言をして、世界中から批判され、ジャーナリストにまで批判されても僧侶は、一つも反論できなかったと聞いている。何もわかっておらん。元々わからんというのが答えだったらどうする。ナッシングじゃ。
  
 
具体的な実践方法の助言をして下さい。
 すべての人々の様々な問題に、適切に応えるのが、我々宗教家の課題だが、応えられないときもある。わしだって応えられないこともある。だから裸にならにゃあならん。
 家庭の崩壊は、心にゆとりのない親に多い。仏ホットケ、神かまうなの今日、天の理、地の理を知り、感謝することを説いてほしい。
 自分一人で生きているんじゃあない。物の生命を無駄にしない、大事にして徳をつむ。全ての命の大切さを説いてほしい。
日々の生活の中で、ぱっと喰いつける平易な話、今、生きている説法をせにゃあならん。今、世尊が生きていたら、大蔵経を全部書き替えられていらっしゃることだろう。むづかしい禅語なんか使っちゃあいかん。
 キリスト教は、祈りと労働。我々は、坐禅と祈り。坐禅ができなきゃあ汗水たらせ、裸になって、血みどろにやれるか、やれないかが境い目だ。困っている人がいたら助けてやればいい。奉仕の精神だ。青年僧の皆さんの緊要のつとめでしょう。
 一番求められていることをすれば良い。迷っている方があれば、そこへ行って手を掛けてやり、老人ホームが、もっともっと多くなるでしょうから、カウンセリングをして、老人達の世話を自分達でする。悩み苦しんでいる問題のところを、引き受けてやってみるも良い。諸病を治す薬は、坐禅だと自分でわかっているのだから、医師のすすめる薬より良い薬があることを教えて上げることが大切だ。体を動かして働くことは重要だが、体が不自由で動けない人に、どのようにして安心していただけるか実践してゆく場合大いに問題になる。共に悩み、同行二人で、このように、現在生きていることが救われていることを説いてほしい。それには、生きて救われていることの確かさを、自分達が持たねばできないことです。
 仏さまと一緒にいるんだと言ったって、何が仏さまかわからないという世の中ですから、その辺の良い所だけダシを掬って、まるめて、うまくやろうとしも、うまくできない。抽象的なことを口にしても駄目だ。
 お世話する気持、やる気があれば、何でもできる、やることは、いくらでもある。共に坐り、共に汗を流し、共に苦しむ、やりがいのある、しかも、今の皆さんでなければできないことばかりだ。
 感謝の心(仏心)の日常底であってほしい。
(文責編集部)