「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成29年9月〜】

 掲載号等  【第27号】:昭和62年1月発行 

妙心寺派管長 倉内松堂老師
「生涯の杖 〜父母の恩〜」
 
   
 


☆小僧に行く
 私は14歳の時六年を卒業して豊橋の正宗寺へ小僧に行きました。その時はお寺の話もろくに聞かず、「行け」と言うので行きました。正宗寺は人家から八丁ぐらい山奥へ入った所にあり、参道には太い杉が聳えていて空を見ても星が見えないくらい鬱蒼としていました。師匠は寺の副住職で南禅寺に在錫中でしたので寺には隠居さんと世話をする尼僧さんと人力車夫の三人しかいませんでした。副司寮は通いの和尚がしていました。しかも学校は、村の子供と遊びがちになるというので、よその村の学校へやられたので距離がうんとあり、苦労しました。そんな訳で私は、寂しくて寂しくて居ても立ってもおれませんでした。たまらなくて朝、学校へ行くと言ってそのまま実家へ帰ってしまったのです。



☆不退転の決心
 深く考えもせず親は叱りもしないと思って、「おい帰ったよ」と帰りました。すると私に一遍も怒ったことがなかった親父が、厳めしい顔をして、
「何で帰って来た!いいお坊さんになれと送ってもらって3日も立たずに帰ってくるとは何ごとだ!!!」
とひどく怒って家へ入れてくれませんでした。私はびっくりして途方にくれてしまいました。そこで母親で父親に隠す様にして家に入れて一晩泊めてくれました。父親に「魚屋でも洋服屋でも一遍小僧に出した以上は、家へ帰さないから覚悟をしとけ」と言われて、お婆さんの横へ寝かされました。魚屋や洋服屋よりお寺の方がいいと思い、私は明くる日帰りましたが、その時、あれほどひどく怒った父親が、私に隠れて手を合わせて涙をこぼしておってのです。私はそれを見て「あ〜っ」と痛感しました。「これはもうお坊さんにならにゃいかんわ、もう帰って来ないわ」と思いました。あの姿を見なかったらどうなっておったかわかりません。その姿は隠れて私を拝み謝っておりました。それを見て、“坊さんになるんだ”と決心出来たのです。



☆宗門安心章の編集
 私は昭和15年に臨済寺に行きに18年に住職し、24年に僧堂が開単できました。その後、高等布教の講師をやった頃、何か読みやすいものを作ろうという話が内局で始まり、その起草委貝に無文老大師と伊藤古鑑先生と私の三人が挙げられました。月一回集まり、曹洞宗の修證義風のもので、長すぎないものを、というのが始まりでした。最初は『在家安心章』といって在家にわかりやすいのが主でした。『宗門安心章』の第二章自覚安心と第三章行事仏道の二編のようなものは、教義の基本として作らなければなりませんでしたが、第一章信心帰依のような在家にわかるものを入れるかどうかということが問題でした。心安くしていた南禅寺の故寒松軒老師に伺ったりしました。
☆在家の為の安心章
やはり『在家安心章』としては、“ただ悟れ”でははじまりません。そういうものを入れなければわからない、と言った所、無文老大師も伊藤先生も賛成してくれて、あの第一章が入った訳です。それで伊藤先生にお願いして案文を作ってもらい、無文老大師が手を入れました。私も拝見させて頂き、昭和40年に『宗門安心章』が出たのです。自分等の作ったもので何だか気が引けて人に読むことを勧めるのに遠慮していましたが、本山ではこの『宗門安心章』がどんどん使われておるので、打ち込まなくてはいけないと思いました。それで私は管長にでとる間、皆さんにこれを読んでもらおうと思って提唱はとこへ行っても『安心章』です。
私か今日まで来れましたのも因縁に恵まれ周囲の人に恵まれたおかげです。お互いどんな因縁も疎かにせず、精進してゆきたいものです。
(文責編集)