「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成29年9月〜】

 掲載号等  【第25号】:昭和61年6月発行 

東福寺派 管長 安田天山老師
「まんまんちゃんが見ているの」


   


 野衲は岐阜市の百姓の出身でありますが、代々僧侶になる習慣があったのです。
 
 父参二の次男であったので、僧侶になったのです。それも小学校へ上らぬ前と云うので、七才になるとすぐに、叔父が住職していた東福寺塔頭霊源院の小僧になりました。頭は丸坊主で、言葉が岐阜弁なので同級生が寄ってたかって坊主坊主とからかわれた。
 
 負けん気で、それ等に泣きながら立向っで行った。東福寺の山内には小学生が十人程が居り、殊に一年の同級生が三人居って、その三人が協同作戦を取って戦った為めにいじめは止った。
 
 ただ困ったのは本山の出頭のため、毎月一日十五日、それに開山忌の三日の日は一時間、二時間と遅刻をせねばならぬ事であった。当時は本山の塔頭が二十五ヶ寺あったが山内出の児童は一人も居らなかった。何れも在家からの出身であった。婆阿(バーヤ)が居ったけれども子供が生める年の者は一人も居らなかった。其時期に思い切って嫁をもらい正式に結婚をしたのは善慈和尚であった。随分抵抗はあったが敢然として結婚をし、子供をこしらえたのである。
 
 わが師匠霊源和尚も大阪から嫁をもらった。それが相場師の娘であった。この事がやがて山を出なければならないことになったのである。所謂「株屋」の義父を持ったわけである。その影響があると思われるのである。本山へ出仕して財務部長になった霊源和尚は、本山の債券を抵当に「株」をやった。この事はやがて本山の知る事になって、住職を剥奪し、地方への住職の転住と云う事になったのである。その出発の日に立会人になったのが、善慧院住職爾以三師であった。岐阜の父、参二も来で居った。其の時中学一年であった私を岐阜へ連れてかへると云う。それに抵抗したのは自分であった今の中学校へ続けて行きたいと云う。それを見て「守宏さん、うちへ来るか」と。中学校へ続けて行けるならと。それからが大変だった。善慧和尚の奥さんには一言も云ってないのである。時は十二月の寒い日であった。「おい、小僧をうちへおく事にきめたぞ」何にも知らない奥様はポカンと囗をあけておった。その当時善慧院はビタ銭一文善慧(銭ネー)院と云はれ、檀家は十軒余り、山内で一番の貧乏寺で、奥様と女の児が二人であった。朝は六時に起きる、顔を洗ったら本堂で朝課をよめ、それから内掃除、それが済んだら、弁当をつめて学校へ行く。学校が終ったらすぐに帰って庭の外掃除、明るい間は寺の仕事をし、勉強は晩食の後ねるまで、と。それには別に不服はなかった。寺によっては夜学に通っている者もあったのである。奥様からは弁当は自分でつめる事、冷飯から食べること、塩こんぶが弁当のおかずである、勿論飯は麦めしである。これ等は外の寺でも同様であったから文句はなかった。所が冷飯に茶漬にして食べるのに薬かんの湯が沸湯しておらぬ、一杯入れてあるので、これを半分程にしておくと早く沸湯するのである。奥様が薬かんに水を一杯入れてあるのを半分程捨てると早く沸く、この事を発見して、それを実行してよい気になっていると三日めに、和尚から云はれた。お前は生ぬるいお茶では朝食は食えぬのかと、仕方がないと諦めた。それから十日程してから晩食の後、紙に包んだ五円札を出して、これはどうした金だ。ハッ、と気ずいたのです。これは田舎の父がこちらに御世話になる時に、決して無駄使いしてはならぬぞ、どうしても必要な時に使う様に、と渡してくれたものです。と言うとニッコリ笑って、この金はわしが預っておく、必要な時は出してやると。それ迄はだまっていた奥様が、駄目です、これは鑑札のお金です。虚無僧が送って来た為替です、郵便局で現金に代えて来たのです。私が盗んだと云われてビックリしました。
 
 私が父から貰ったと云うと、和尚はそれなら岐阜へ手紙で尋ねて見たらと云いますと、それは駄目です親子の間柄だ。きっと渡した金だと云うて来るに決っています。部屋へ帰ってよい。と云うので。
 
 部屋の机の上がぬれるのもかまわず泣き続けたのですが、フッとおれを盗人あつかいするのなら、本当の盗人になってやろう。さて和尚や嫁さんは何處に金を仕舞って居るのかと考へて居る時、フッと「福坊やアレを御覧、まんまんちゃんが見てよ」福坊とは、幼名を福男と云った。それは祖母が毎日、朝お仏壇で私を膝にだいて云うた声です。そうだ仏様は本当の事を知って居られるのだと。私は、本堂へ行ってどうか本当の事を知らしめて下さいと再び泣き伏したのです。かくて朝おきで奥様にお早やうございますと挨拶するのですが返事はしません。学校へ行きましたが何を習ったのか覚えがありません。寺におそるおそる帰ったのですが、私が玄関を唯今と明けると奥様が飛んで来て、守宏さん済まなかったネあのお金あったの、別の所に入れわすれたの。私は、ああ、ありましたか、よかった。それいらい私を自分の本当の子供以上に待遇し、私を大学までやり、自分の児は女学校でやめさしたのです。このでき事が若かった私を支えてくれたのです。