「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成29年7月〜】

 掲載号等  【第23号】:昭和61年1月発行 

南禅寺派管長 塩沢大定老師

「若き指導者青年僧に望む」


   




 私は至って浅学である上に修行もまた至って未熟であります。従ってこれから申し上げることもまた、大方の高徳碩学に対しては、至って失礼千万の謗りを免れません。けれども青年禅僧の皆様に期待する処、極めて強いための老婆心より出ずるものとお考えいただければ幸甚であります。
 
手引書の限界
 近頃は禅に対する世間の関心が高まって、至る所で禅研修会が開設され、書店には数え切れぬ程の禅に関する書物が出て居ります。これは世間の要求する処に応えて、禅宗僧侶が専心に自己の本分を遂行すべく努力して居る証拠であり、又これ等の努力によって、世間が少なからざる利益を蒙って居る証拠でもあって、大変喜ばしいことであります。
 ところが私にとってどうしても、腑に落ちぬことがありまして、「これで良いのかなあ」と思うことが一つあります。
それは求むる世間の方も、与える禅僧の方も一種の「言葉のアヤ」に酔わされて居るのではないかと云うことであります。例えば或る本に「褝とは自己の内なる本来澄明なる霊性に目覚め、これに順応して行く自由なる生活である」と云うようなことが書かれて居ります。又或る本には「禅とは生活であり、創造的生命作用としての全一体的な自由なる人格の行動である」と云うような表現が用いられて居ります。此の種の名言卓説は枚挙するに遑なしと云うべきであります。
 これらは決して誤りでありませんし、著者の為人度生の血滴々でありましょうが、読む方の側からすればわかったような、わからないようなものではあるが、何かしら心惹かれる言葉であると感じられるでありましょう。私には其処が何とも腑に落ちないのであります。
 元来禅なるものが、このような言葉のみで言い尽せるものでもあるまいし、又単なる文字言句の理解で事足りるものでもあるまいと思います。更に「これで良いのかなあ」、と危惧を感ずるのは、若き指導者たるべき青年禅憎が、これ等諸先輩の言葉を鵜呑みにして、「我れ禅を得たり」などと考えて居られるのではないかと思われるような実情を、屡々見かけることであります。然しよく考えますと禅の手引書の著者方は、一様に「言葉では云い尽せるものではない」と断って居られますが、断定的な表現を用いて居られる以上、失礼をも顧みず申しますならば、それ等の断り書きは、何だか逃げ口上のような気がしてならないのであります。と申しますことは、何かしら人間の骨肉を通じた暖かさが感じられないと云うことかも知れません。
 
祖師の言葉の重み
 古来の祖師方も種々に説かれて居ります。
 然し乍らそれ等祖師の言葉には、其処にその祖師の全人格が躍動して居るものばかりでありまして、決して逃げ口上を付け加えては居られません。だからこそ真参実究の拠り処と成り得るのではないでしょうか。「庭前柏樹子」「乾屎獗」「麻三斤」等々、機に触れ縁に応じて発露された祖師の全人格が、幾千年を絶して其処に輝いて居るからこそ、尊いのではないでしょうか。「祗是未在」と喝破された白雲守端と、「祗是未在」の一語によって透徹された五柤法演との如き本当の意味の了得は、禅書を著わさんとする今の禅学者と、これを読んで禅とはどのようなものであるかを知ろうとする現代社会の人との間には始めから無理なことでありますから現今のような哲学くさい表現を尊ぶ風潮も、世間に対する禅の布教伝道の一手段として、亦た止むを得ないでありましょうし、又それはそれで大変結構なことと申すべきでありましょう。然し私は現実に禅の専門家とも云うべき我々禅憎が、これに酔ってばならないと思います。専門家たるべき禅僧が、書かれた文字を見れば、世間の人とは違った受け取り方が出来るでありましょう、けれども手段として書かれた文字を了解して、我れ禅を得たり、これが禅であるなどと考えることは、全く危険至極であります。了解すればそれを実行して、自分自身の血肉となった味わいを打ち出さなければ、本当の褝の教化とは云えないのではありますまいか。
 我々はもともと行ずべき立場であります。行ずることに依って、「麝有れば自然に香ばし」と云うような教化こそ、本当の意味の褝の教化であると考えます。
 禅は元来「黙に宜しく説に宜しからず」と云われて居るのはこのことであります。いろいろと教化の態様があって、禅の手引書の有ることは必要でありますし、また哲学的と申しますか、知的と申しますか、そう云った新しい表現を駆使して教化にあたることも、現代では大切なことでありましょう。

行の自覚
 だが然し、此のように思いつつ何となく腑に落ちない。何となく「これで良いのかなあ」と感ずるのは、現今の禅界の風潮に、何かしら「行」と云う大切なものの足りなさが見られるからであると思います。
 「一尺を道取せんよりは一寸を行取せんには如かず」と云うことかあります。自からの中に「行取一寸」と云うものがあってこそ、外に向って「道取一尺」が生きて来ると云うべきでありましょう。
 私が熱心に教化に活動して居られる青年禅僧の皆様に、錦上更に花を添ゆる意味に於て切望する処はこのことです。