「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成29年7月〜】

 掲載号等  【第22号】:昭和60年10月発行 

天龍寺派 管長 関牧翁老師

「我が生涯 傘寿を越えて」


   



秋酣闌、紅葉が一段と冴え渡る。紅葉は、必然的に冬の季節の到来を告げる準備である。
京の冬は「底冷え」といい、厭う人も多いようだが、むしろ中途半端なところがなく寒に徹しきって、なお凛然とした風情を感じさせる京都の冬を、私は好ましく思う。
その底冷えの冬を嵯峨の一隅で迎えてすでに五十五回。長いといえば長く、短いといえばやはり短い。まさに「光陰矢の如し」の感が深いが、冬になると必ず私の胸に去来するのが、美濃の山峡で労働に明け暮れた青春の日々である。わけでも、仏道こそわが道と定め、雪深い伊吹北麓の山寺で過ごしたころのことが偲ばれてならない。
一滴の峠の水が、さらに一滴の水を集めて一筋の流れとなり、いつしか粕河の清流となる。そのほとりに、わずか戸数十戸あまりの、一番奥まった山裾に瑞巌寺が建つ。私の授業寺である。つるべ落としの秋の日は早く、十月末から翌春三月末までは、時雨と吹雪の日が続く。一夜にしてニメートルもの雪が降り積もり、幾人かの行人が遭難し、飢えに鹿が寺の境内にうずくまっていたこともあった。年の半ばを深い雪に閉ざされ、孤独なまでの静けさの中に、一点の灯をともして佇む瑞巌寺。その寺へ、自らの意志で修行に入ったのは、二十四歳の春だった。


私は慶応義塾大学医学部に在学中、武者小路実篤氏が提唱した人導主義運動に共鳴し、学業半ばにして岐阜県伊吹の山中に入った。そこで武者小路氏の「新しき村」と思想を同じくする「愛の村」での開拓生活に身を投じたのである。瑞巌寺は、その「愛の村」よりさらに六キロほど山奥にあって、一風変わった和尚が住している、と耳にした。肉食妻帯せず、生活は枯淡だが無類の酒好き。平素、自分は毎日五合の酒を飲み、詩一篇を作りたいがために出家したと豪語していた。その和尚が月に一回法筵を開いていると聞き、席に連なるようになったのが、今日に続く仏縁のきっかけである。
当時、私は「愛の村」で汗を流しつつ、なお理想と現実のはざまに立って、人生いかに生きるべきかとわが心に問い求め、懊悩の日々を送っていた。その大疑が一時に氷解し、眼を啓かれた思いがしたのは、一夕和尚が講じた『信心銘』の一段。「至道無難、唯嫌揀択」に触れた時である。即座に私は出家を決意し、その夜、初めて和尚に相見した。
和尚の名は岡部洪宗といい、「出家の世界も浮世じゃ」と反対した。私は頑として退かず、ついに入寺を許された。小僧生活を経た禅僧なら誰もが昧わってきたことと思うが、禅寺の生活は、まことに厳しいものである。一年後、私は剃髪し、正式に弟子の礼をとった。和尚の一字をいただいて「宗巍」と名付けられ、いよいよ京都へ雲水の修行に出る日、和尚は田舎駅まで六キロの道を共にしてくれた。「お前は途中坊主で何かと苦労も多かろうが、これからは他人の心になって精進せよ」と諭し、汽車が走り出してもなお、じっと合掌して見送ってくれた。師のありがた味が、これほど心に浸みたことはない。


私が最初に掛搭したのは、瑞巌寺の本山妙心寺の専門道場である。坐禅と作務の求道の日々。犬でも顔をそむけるような粗食。わずか一年足らずで体重は激減し、血啖が出た。「死して叢林にあれば骨もまた清し」と、古人の句を添書した手紙が和尚から届いた。しかし、病む時は病むにまかせるしかない。押して帰坊した私を、和尚は、淡と迎え、「六尺病床是小道場」と自ら大書して枕元に掛けてくれた。
静養一年、私はすっかり健康を取り戻し、再び修行に出ることにした。今度は天龍僧堂へ、前管長関精拙の門を叩いた。先師は当時、京都七本山の管長の中で、毀誉褒貶相半ばする世評にあった。もともと二年ほど留錫するつもりだった私が、ついに天龍寺に終生とどまることになったのも、侍者として左右に仕えるうちに、余人にはうかがえぬ先師の真髄に触れ得たからである。いかに世評があてにならぬものかを痛感した。以来、他言によって人を判定するの愚を避けた。また、人の噂に右顧左眄するような人間にはなるまいと自戒して今日に至っている。
牧翁の名は、先師に代って師家職を拝命した時に授けられた。「弟子というのは、たとえば牧場の翁が牛や羊を根気よく飼う親心がないと育たぬ。正法を継ぐ真の一個半個を打出してもらいたい」と。
その師の重戒を体し、以後半世紀余、私は弟子の育成に心血を注ぎ、五人を育てた。それぞれ禅界の一方の雄として、今日活躍している。師より賜った「牧翁」の名に恥じなかったといえようか。


私もすでに傘寿を越えた。幾度か病気もし、失敗もした。あるいは女に迷い、酒に迷いもした。しかし、大疑の果てに発心した出家道に、一念の迷いもなければ、一念の疑念を抱いたこともない。美濃の山奥で額に汗した青春に悔いなく、老春もまた悔いることがない。こういえる境界へと、私を導いてくれた二人の師、岡部洪宗和尚と関精拙前管長に、ただ合掌するのみである。