「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成29年6月〜】

 掲載号等  【第20号】:昭和60年4月発行 

 「禅僧の本分」

 東京 白山道場  小池心叟老師 
   
  





近代文明の中で
現代人の驚くべき頭脳がもたらした、先端技術の進歩は、すさまじい勢いで多角的に開発され、とどまる処を知らない。
われわれも、日常さまざまなものに触れ、その恩恵に浴しているが、われわれの心の本質、自然の道理を見極める内省面に於ては一向に進んでいないように思われる。現代人は機械産業の坩堝の中に在って人間の本質を見失いかけている。
機械文明の発達により、自らの手によって作り出された機械が闘争、戦争用具に悪用され、地球の破滅という奈落に追いつめられ、やがて到達せねばならぬ苦悩が徐々に目前に逼りつつある。
世界中いたる処で日々、戦争、革命、内乱、闘争を繰りかえしているが、人間はどうして、これ程までに血腥い争いを好むのであろうか。人間の宿命とでもいうのであろうか。夫々与えられた国土に於て生活を豊かにし、繁栄を計り、平和な心の安らぎを求めようとしないのであろうか。宇宙、日月星辰、森羅萬象、悉く相対関係の上になりたっており、全て因縁所生(諸法は皆これ因縁より生ず)によって現象として存在している。われわれ人間は大部分、自我の凝りで占められている。銘々の知識も大自然から見れば小さなものに過ぎない。仏の教えは、われわれの小さな自我を否定し、大宇宙の法則の流れの中に引き入れ、大自然と共に運行し、大自然と共に起居する境界を体得せしめんがためである。
 
 
自我滅却のために
それでは、その自我を滅却し、宇宙観に徹するためにはどうすればよいか、他に色々方法もあろうが、坐禅して無念、無想、無我の境地を実践体得するにしくはない。過密化の一途を辿る都市の中に於て、自己の内省を計り、究明することは容易ではない。変化の激しい日進月歩の世の中において禅僧の面目を保つためには自らの向上を計り、社会の濁流に押し流され、世俗化しないことが肝要であると思う。近頃、沢山の禅書、修養書が刊行されているが、それ等の書物によって一応理解することも必要ではあるが、理解することと体験によって会得することとは別である。剣道、柔道、茶道、華道、囲碁、将棋、スポーツはもとより人事百般、なに一つとり上げて見ても同じことがいえる。先哲は夫々自己の信念にもとずいて技術をみがき、その心髄に到達し、其の道の先鞭をつけている。
 
 
禅僧の存在価値
われわれ禅僧も、自らの向上をはかり衆生済度の役目を果してこそ、禅僧としての存在価値がある。世俗にだけでも、真の禅僧とはいえない、上求菩提、下化衆生という大眼目に邁進するためには、僧堂に於て培かった基礎を生かし、夫々の自坊を開放し、坐禅指導に当って欲しいものである。如法に努力すれば供菓は自然に集まってくる。各本山で戦後、安居会を取入れて空寺の充足にしているがバカバカしいこと、此の上ない。禅僧の禅僧たる所謂は那辺にありやといいたい。一週間や十日の研修会でどれだけの禅僧としての体験が会得出来ると考えているのであろうか。本山当局者の心意を伺いたい。自己の修行一つ出来ない人々に現代人の指導が出来るであろうか。近年新聞、雑誌等、本屋の店頭は新刊書で飾られ、これだけ狂乱怒涛のマスコミ攻勢にあえば、もの知りは多くなるのも当然かも知れないが、一知半解を振りまわし人間が大変理窟っぽくなってきたが、断片的知識は浮き草のようなもので根がない、根の張っていない樹木は風雪に遇えば忽ち将棋倒しに倒れる。促成の悲劇とでもいうべきか。動物的自己本能にもとずく言動、行為のみにおおわれている。禅僧といえども同様である。「風吹けども動ぜず天辺の月、雪圧せども摧け難し嫺底の松」という禅句の如く大地に根を張り、風雪に耐え忍ぶ禅僧を養成せずんば、禅の命脈は地を振うであろう。「精金火に入って色転た鮮なり」でたよりになる人物は生れない。自己の確立こそ重要な課題であると思われる。世事にたけた人間は世の中にウヨウヨしている。このような人間は畢竟するに夢幻泡影の如く露や電のようなものでなんの役にもたたぬ、僧俗を問わずわれわれは自我のとりこになり、自我を押し通そうとする。学識があれば学識のとりことなり、名利を得れば名利のとりことなり、財物を得れば財物のとりことなり、自我の繋縛に陥る。対人関係に於ても、社会に於ても、国際関係に於ても、全て軋轢の起る原因はこの自我に外ならない。
臨済和尚の純一無雑となること、即ち自我を徹底的に取除くために褝の修行の意義があり、至難な面もある。
仏教三千年の脈々たる生命も、根本理念も、これを遡れば無我に帰する。無我に徹すれば、動静一如の宇宙観が展開し大自然の運行と共に生き、遊戯三昧の人生観が開けて来る。勉旃勉旃−、