「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成29年6月〜】

 掲載号等  【第15号】:昭和59年1月発行 

 「御垂誡」

 建仁寺派 管長竹田益州老師
 

  






〇 先頃、米寿を祝われ、益々矍鑠(かくしゃく)としてお過ごしでいらっしゃいますが、私達の不二新年号にお言葉を賜わりたく参上致しました。
 
 『不二』とは、禅宗にふさわしい誠に良い名前だと感心して承わりました。
冨士山のある静岡を事務局としているとのこと。冨士山は殊に、八方十方と何処から見ても名山で二つとない山であるという意も含んでいると承わっております。
 
 亦、我々人類にとっては「萬事誠意」と修行にも通ずることで、二つとないという。「一」としてよく聞かされております。
その一つの「吾が道、一を以って是を貫く」を書く時にも、この人生にとっても意義ある「不二」の心を大切にしております。
それに、我々人類が八、九十年生きるには、冨士山のように萬古不易で秀でた景色や行ないで、幸福でありたいというのが、萬人の願いであります。
 
 人生に、衣・食・住は欠かせないもので、それらが満たされることを誰もが願うが、殆ど満たされない場合が多く、その事実を、即ち、不服な衣食住を生活しその中に喜びを見い出している禅門の人々は大変に尊いことと思います。
 
忍辱精進
 
私はよく「忍」の字を書きます。
私は、九州は国東半島の百姓の三男として生まれ、随分貧しい幼少を過ごしました。丁度、日露戦争のさなか、十一才の時、或る因縁で、近江は堅田の大徳寺派祥瑞寺に小僧として出家したのです。この寺は、かの一休禅師も二十歳頃に住まわれた格式の高い寺で、境内も七反という立派なものでしたが、檀家はごく少なく、葬式や法事は当然少なく、今迄の貧しかった生活に輪をかけて、小僧修行の厳しい日が続きました。
 
 その後、十六才の時、京都に出て大徳寺境内の般若林の学生になり、勉学に励みました。この頃も、郷里から何も送ってばこないし、随分ひもじい生活でした。もっと勉強したかったが、学資の都合で進学は叶わず、二十才の春、建仁僧堂に掛塔しました。
僧堂では、鞋資が月に三十五銭か五十銭もらえましたし、お粥や何かは食べれましたから、むしろ、家より楽だと思ったこともあります。
 
 そんなこんなで、今迄、教えられてはいたけれどわからなかった「忍辱精進」ということが、だんだん、実地に有難く思うようになっていきました。辛抱はしなければいかんと思います。
「忍の徳たること持戒、苦行も及ぶこと能わざる所、能く忍を行ずる者、乃ち名づけて有力の大人と為すべし」
という遺教経のことばにあるとおりだと思い、このような心がジワジワと理解できるようになっていったのです。
或る時、默雷老師に「忍」の字の揮毫を頼みますと、何故か忍の字を書かず、「刻苦光明必盛大也」という八字を書いて下さいました。
 
 ここの默雷老師の下で、十七年間、辛抱しました。
古渡庵老師、即ち、竹田頴川老師は、私が役位の時に新命老師で居られましたが、大変立派な方で、新命老師として柔和に十年間御辛抱されておられました。修行もありましたが、こういう老師に恵まれたこともあって、『忍』ということを本当によく身に付けさせて頂けました。
刻苦光明必盛大也……。
 今では、早や、八十八才になって、この三年間新命老師に来て頂いてからは、そこの庭にある曹洞宗の道元禅師と同時代の仏樹禅師、即ち、明全さんの墓に詣で、私があちこちで頂いてきて、適当に植樹し育った木々の緑に囲まれ、この木々と一緒で、楽も苦も修行と心得、天地大自然の壮大なる恩恵に感謝し、自然から言えば何億分の1かの この八十八才の一日一日を静かに生かさせて頂いております。
 
 
 
〇 四、五十年の間、雲水さんを見てこられて、その気質の違いの様なものは感じられますか。特に辛抱ということなど・・・
 
 今の方々には、「忍辱」なんてことはわからんだろうし、一、二度の話しではとても体得できんでしょう。忍耐の意味も知らないでしょうね。
 
 
 
〇 絵をよく書かれますが。
 
 絵は、幼少より好きで、尋常小学校の時より、ずっと一番でした。特に誰かに指導を受けたというのではなく、学校での授業だけで、独学です。好きだったし、先生がよく誉めてくれたのも良かったんでしょう。
 
 
 
〇 老大師がよく使われる好きな言葉をお聞かせ下さい。
 
 四十二章経の「沙門、仏に問う、何者か多力なる、何者か最明なる。仏の言く、忍辱は多力なり、悪を懐わざるが故に、兼て安健を加ふ。忍者は悪なし、必ず人に尊ばる」を提唱等でよく話します。