「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成29年5月〜】

 掲載号等  【第13号】:昭和58年6月発行 

 「境に動かされない」
  
 方広寺派 管長 藤森弘禅老師  

  





質問者
方広寺は、全山が研修道場という体制で、青年教育に殊の外、力を入れておられますが、今日に至る迄の御苦労をお聞かせ下さいませんか。

老師
 今度臨黄教化研究会の会場となる大慈閣など、全くのゼロから出発したが、「なせば成る なさねばならぬ なにごとも なさぬは人のなさぬ なりけり」で、毎日「寿」の色紙を書き続けた。行を通して誠を通す開山大師の『誠の心』でやってやれぬことはない。




質問者
こちらでは半僧坊(鎮守)の信仰が盛んですね。今日、一般には年頭の初参り等が年々盛んとなっていますが、それらが正しい信仰と結びついているかどうか心配な処があります。禅は自覚ということを重んじる宗旨だと思うのですが、現世利益を求める風潮と信心について、お話し頂きたいのですが、

 人間は目に見えなければ認めたがらない。しかし、我々の坐禅でも、無−無−と坐って、老師に駄目だ駄目だと言われ、一年経ち、二年経って自然に自分もわかってくる。丁度、沢庵漬のように、漬けた時は塩辛くて食えないのが、やがて長い間に甘味を帯びておいしくなる。そのように、何とも言えん時間が解決する。信仰する人に何かが必ならずかなえられる。かなえられるからお参りする。



質問者
私共が坐禅をし、坐禅を積み重ねることによって、目に見えないものを会得するということと信ずるということとは、それが何であれ、全く一体である。禅と一体であるということですね。

老師
 坐禅は信じなければなにもならない。一年−二年−十年とやるうちに妙智力を得る。心が実際のものと交流してくる。人間にはその会得する神・仏がちゃんと生きている。それは絵を描いても、字を書いても、目の前に実証できる。やっただけのことはそこに表われてくる。写経にしても一生懸命にやろうという精神・誠の心があれば只単に字を書くのとは違う。



質問者
坐禅は勿論ですが、現世利益の信仰でも誠をしていけば、必らず得るものがあるということですか。

老師
 誠をしていれば、どんな人でも加護がある。やろうという一念ですね。一念!
念力・正念・正念相続というやろうという一念。教育とかその他艶々した問題でもこの一念があれば……。木を割る時でも気合がなければ割れない。




質問者
ご修行時代の話に入りますが、玄峰老師には語り尽くせない位の思い出がおありと思いますが、

老師
 色々あるが、兎に角大変苦労された方だけに、困って懴悔している者に決して追い撃ちをかけるようなことをしない人だった。間違いを犯しても決して追っかぶせて苛責するようなことをしなかった。
ある時、大変親交の深かった信者より特別の紙に観音経の写経を頼まれた。目の不自由な老師が漸く書き上げられたが、私が「般若窟 玄峰」の判を逆さに押してしまった。そのような時でも、「誰でもすることだよ。これから気をつけろよ」と、それも一年以上経った後に言われただけだった。人の辛い事は身をもって知っていた人であった。




質問者
管長さんの一番お好きな言葉をお聞かせ下さい。

老師
 「無」 味わえば味わう程よい。「光」もよい。「風」 風味、薫風、風は四季折々皆違う。風によって春の風は花を咲かせ、夏は青葉・若葉、秋は実り、冬は寒風となる。



質問者
私たち青年僧侶はお互いに未熟で迷うことが多く、仲々前へ進めないのですが、このような青年僧侶にこれだけはということをお話し下さい。

老師
境に動かされないことです。どんな場合でも動かない。国の変革や思想・世相そして目先の変化に動揺しない。そして誠を尽くすことです。屋根の鬼瓦は、どんな寒さが来ても、どんな暑さが来ても、春のようなうららかな陽気にもちっともうかれず、でんとしっかり虚空に向って角を突き出している。一生懸命に参じて、鬼瓦のように何の境にも奪われない。この一念が大事である。世の中が変っても、どんな時代が来ても、無− 般若心経なら羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦と、極楽へ行こうが、地獄へ行こうが変わらず、禅宗坊主の真面目を貫ぬいてもらいたい。