「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成29年5月〜】

 掲載号等  【第12号】:昭和58年3月発行 

 宗教の価値と存在意義 (その3)
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 京都 大珠院  盛永宗興老師  

  





宗教体験の出発点はしみじみ味わう心に


仕方なく僧堂へ行って、否応なく参禅もし、適当な時期で自坊に帰って住職となった身では、世間の色々な問題に対応する力が無いと困っている人を見かけますが

これを解決する唯一の道は当人が本当に困ることだ、と思います。誤魔化さない事。器用に衣着て床の間の前に座らされているからといって、偉いところ見せる必要ないのです。在家の者が僧を尊ぶのは大切なことです。しかし、坊さんが尊ばれるには、どんな質問にも即座に答えられなければならないのか?いつでも教える態度でなければならないのか?私はそうは思いません。要は、他人の苦しみや、自分の分からないことに対して感度を落とさないこと、誤魔化さないことです。たとえば、妙心寺の愚堂和尚と同じ時代の大愚和尚というお方は、葬式の時に婆さんから「本当に家の孫は成仏しましたか?何処へ行ったんですか?」と言われて、再行脚されたという有名な話がありますが、再行脚はしなくても、そういう質問に対して、本当に困ることが大切だと思うのです。口先で誤魔化さないこと。
「儂には分からん。儂には分からんけれども、とも角、仏様の仰有ったことを信じて、一所懸命お願いしたんじゃ。孫が可愛かったら、儂と一緒に、二辺の所を三辺、三辺の所を五辺、手を合わそうや」と一緒に困ればいいと思います。それが、大変器用に誤魔化すのですね。表面の皮が出来上がってしまっていて深く入っていかないのです。現代人の一つの特徴に、ものを染み染みと感じることが無くなってきて、それが坊さんの世界でも同じになってしまった。
宗教的体験というのは、色々深さがあると思います。白隠さんでも、大悟十八、小悟はその数を知らず、と言うておられ、たとえ自隠さんの小悟の何十分の一であったとしても、宗教的体験というのは、非常に深くしみじみと考えることが、先ず出発点だといえます。あの「花園」誌の大心院さんの編集後記には、素直な人間の情愛という、本来ある可き情愛として感ずる事が書いてあります。私の言う宗教体験とは、跳び上がったようなものでなく、徹底素直な心で以ってものをしみじみと味わっていく姿勢が、先ず坊さんにも寺庭にも、離僧教育にも欲しいのです。

妙恵上人の、「もののあわれというものを分からない者は、芸術をやろうが、何をやろうが大成しない。坊さんにとっても同じことだ」と、もののあわれを強調されたのと同じことです。言葉は、数寄のこころとありましたが、私はこう解釈しています。



ところで、日常生活で宗教体験を深めるにはどんな道が・・・・
今逸に二人程、「お前は偽者だ」と、態々手紙で書いて来て呉れた人が居ます。然し偽者、というのは頭の中でしかないんだ。一人として偽者はいない。偽者、本物として問題にしているのは、その人の頭の中、意識の中にあるのであって、一木一草に至るまで本物でないものは何も無い。だから、自分が本物の悟りを開いたかどうかを気にするよりも、自分の坐禅が、本当に日常生活を慶快にしたかどうかを気にして修行せよ、というのです。でないと、一盲衆盲を引くという様な禅会が出来たりするのです。



日常が慶快になることこそ
『宗教体験』というのは、悟ったとか、見性したとかを後生大事に抱えて歩く宗教体験ではなくて、日々が本当に自分が慶快になる、仏縁が有ったお陰で、坐禅をしたお陰で、仏法を聴いたお陰で、自分の日常が時間的にも長く慶快である、ということなのです。この『慶快』とは泣いても笑っても、慶快ということなのです。私の体験から、僧堂で修行を仕上げるという時期迄道場に居れる人は、その人の努力もありますが、大変運の良い人である、周囲の巡り合わせが良かったと思います。居り度くても居れない。師匠に呼び戻されて、跡をやらねばならん等、色んな人がいます。だから、全ての人に印可状をもらうまでやって呉れとは言いません。宗教体験とはそういうことではないんです。自分に正直に、道場にあっても寺庭にもどってもいつも自己の内面を素直に見つめてゆく生活の中から生れて来るものが宗教体験につながると思います。



大変有意義なお話を頂き、有難う御座居ました。現代社会で苦悩する青年僧に最后にお言葉を
老師だから、檀家のない寺ででもやっていけると他人は仰有るが、私だって、それまでがあったんです。あるいは、老師は力があるからとも仰有る。『力』って何ですか、若し力があるとすれば、始めの一年か二年、歯喰いしばって、じっと寺に居たことです。今は、講演だ、提唱だと呼ばれてお包みも頂けますが、そうなるまで三、五年はあったんです。鬼に角、いつも寺に居れば人が来ます。行けば必らず居るから。そして、私の生活見れば、次に来る時は何か持ってきてくれます。
和尚の力量というのは、たとえば老師が十で、僧堂へもろくに行かなかった坊さんが一だとしても、その差の九ではないと思います。どちらにも釈尊以来の祖師方の功徳が土台に入っていて、老師と普通の坊さんの差なんてのは、土台がこんなに巨大なのですから、ほんのちょっとのことなんです。私は、心底そう思っています。寺なんて、釈尊以来の仏法が被さっていなかったら誰がこんなにして呉れますか。
たとえ、檀家が少なくても、一般民衆の心の中にある仏教というものは、口では粗末なこと言ってますが、抜き様のないものが入ってます。お陰様で生きているということは皆同じです。そのお陰様を「自分の我」でぶち砕すから、「我」さえとれば、正見ができて、色んな恵まれている有難さがよく分かると言うのです。