「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成29年4月〜】

 掲載号等  【第10号】:昭和57年10月発行 

 毒語 住持正法の僧たる自覚を
 円覚寺派管長 足立大進老師

 



僧堂へ方向転換させたもの
曽って花園大学で学んだ私は、当時だんだん近づいてくる僧堂への掛塔を前に、僧堂教育というものに大きな疑問を抱いた。専門道場に入ると、めまぐるしく移り行く社会の動きに取り残されて、現実社会に即応できないような僧侶になってしまわないだろうか。時代の先端に立って人々を教化していくべき僧侶にとって、僧堂教育は現実に対する感覚を鈍化させ、宗教者としては致命的な時代遅れの人間を作ってしまうのではないか。ある時、こんな疑問を訴えて弁論大会に入賞したことすらあった。そんな過去を持つ私が今は専門道場の師家をしておるわけですから、当時の私を知る人々には驚くべきことであって、旧知の仲間から時折その点を指摘されることがある。とうてい僧堂なんかに入りそうにもなかった私をして、僧堂へと方向を転じさせたものは一体何であったろうか。

大学四年の春、寮で同室の友人だったT君の寺を、伊勢の阿曽浦に訪れた。恰度同じその日、一宮の妙興僧堂の河野宗寛老師が伴僧を1人つれてこの寺に一泊なされた。宇治山田のバスの乗り場、バスの中、そして道方(みちかた)からの渡しの中、なにか気になる坊さんでした。河野老師であることが知れたのはもう阿曽浦へ着く直前でした。老師と夕食を共に頂くご縁を項いた。このめぐりあいが私をして方向転換をさせた。どう説明していいものか、今もわからない。ともかく何か大きな力のようなものを感じた。力というよりも、得体の知れないような不思議な安心と言う方が当っていよう。

青年僧の活動について卑見を求められたが、何よりも大切なことは、青年僧各自が、他に安心を与えられるものを養い育てることである。それは自からの安心立命である。自からに不動の安心を養うためには、自己の内に向って求めてやまない不断の精進が欠かせない。こうして錬り鍛えられた安心が無ければ、いかに衆生済度を唱えても所詮空念仏に終る。そればかりか却って他を帯累し、その迷いを深め、信心を害うことすら生ずる。



授業師の意識が問題
臨済宗には僧堂という教育制度があって羨しいと他宗の人から聞く。確かに僧堂は他宗に見られない教育機関である。しかし、今これが形式化して、幾多の弊を見ることを、省みることが必要である。制度そのものよりも、修行する人に問題があるというべきであろうか。宗制上、住職資格を取得する為に、最低限の在錫期間が一応示されている。ところが、その規定を恰好の隠れ蓑として逆手に利用する傾向が甚だしい。今日、禅寺は数多く、そこに住む僧も数多ある。しかし禅を求むる人に応じられる人、禅風を挙揚するというところまではともかく、禅僧としての片鱗なりとも示せる僧がどのくらいあるかとなると実に心許無い。

こんな現状を打開するために、若い人が真箇修行に打ち込んでいける環境づくりが急務である。これは勿論、本山、教団の課題でもあるが、なによりも個々の授業師の自覚にかかっている。雛僧時代に受ける師の感化こそが、修行成就への推進力となる。授業師自身が、己事究明を重んじ、大法尊重の念を篤くして、日日の行事の中にそれを示さない限り、すぐれた禅僧を打出することは叶わない。

この正月の中外日報誌上に、東福寺の福島慶道老師が、授業師たちの中に、僧堂の修行を軽視する傾向のあることを警告されていたが、全く同感である。

禅寺に住しながら、何十年か前にほんのわずかな一時を僧堂に錫を掛けたことを以って、修行の事(じ)了れりとする住職が余りにも多いのではないか。

一回きりの給油で自動車がいつまでも走れるものではない。ガソリン不足の車が高速道路へ出れば、自分が走れないばかりか、他の多くの車の妨げにすらなる。出家として、禅僧としての給油を懈ってはなるまい。世間の人の停年退職の頃まで、せめて年に一摂心でも、最寄りの僧堂とか曽って在錫した僧堂に足を運んで、研修を重ねるようなことも志してもらいたい。授業師のこんな姿勢こそが、学徒に対する最も大いなる化導となる。

現行の宗制上では、最低年限で住持職を取れば、その後も僧堂で十数年頑張った者よりも、法階では上位となる矛盾がある。そしてこんな住職に限って、畏れを知らぬ一面もあって、宗制に認められた法臘を重ねるごとに、臆面もなく法階の昇進を請願してくる。いわば「仮免許」的な資格で、始めは処女の如くながら、たちまち紫衣の大和尚として横行濶歩する嘆わしいこととなる。勿論、第一義からすれば、こんなことも取るに足らぬことではあるが、現実には修行僧の道心を害い、修行を軽視する傾向に拍車をかけていることは疑い得ぬことである。宗門にとって憂慮すべき事態と言える。



住持正法の僧たる自覚を
青年僧が現実にどう対応するかという問題の前に、一人一人が曲りなりにも出家として、禅僧として、在家に異なる「那一物」を身につけてもらいたい。出家の心根を失った僧はもはや信施を受ける資格はないと自省すべきである。そこに自から「法を懼るる」謙虚な姿勢が生れる。伽藍の住持ではなく、「住持正法」の僧たる自覚こそ、今の宗門人にとって最も大切で欠かせないものであろう。

坐禅修行を、住職資格のための課程としか考えない今の風潮はやがて「禅ブーム去って褝者無し」という事態を招くことは、火を見るよりも明らかである。