「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成29年3月〜】

 掲載号等  【第6号】:昭和56年9月発行 

 火は當に滅すべし
 臨済寺僧堂 倉内松堂老師






昭和五年三月、大谷大学を卒業すると直ちに、南禅僧堂に掛錫しました。師家の南針老師は、霧海の南針と呼号して實に厳しく、その痛棒下に、どれ程皆が泣かされたことか、老師から、下手な鉄砲も数打ちゃあたる。と笑われ盲目のふり小便、と叩かれながらも、年数のおかげか、難かしい公案も少しは数えることが出来ました。


昭和十年六月廿日、老師は假初の風邪から肺炎を引き起し、大衆の全快祈祷の甲斐もなく遷化してしまいました。我々は途方にくれましたが幸い老師の法嗣の一人である、中村泰祐老師の薫す廣園寺僧堂に轉錫することが出来、同志十人、その中に、前廣園寺僧堂の三浦一舟老師、東福新管長岡田元亨老師、前虎渓山僧堂の三島良純老師も居られ、南針老師の遺児であると云う自覚から、随分と周囲に配慮し、又精進も致しました。昭和十五年三月、静岡の臨済寺より拝請を受けて、入寺することになり、老師の部屋に暫暇の御挨拶に参上しました時、老師から、我々の絡子をかけて手巾した姿は、佛に心も体も熨斗をつけ、水引かけて捧げた印であるから、今後は自分一個人のことは考えず一途に、四句の願輪に鞭うって、人の為めになるようにとの御垂訓と、次のお話を拝聴し、非常に感激し、爾来自己の座右の銘としています。

昔或る大森林一帯にわたって大火事が起りました。この森の中に古くから住んでいた一羽の雉は、これを見て雄々しくもこの大火を消し止めん事を思い立ち、独りで近くの池に飛んでゆき、か弱い羽翅に水を一杯ふくませ、火の燃え盛っている上に、降り注ぎ、何回となく反覆往来して力の続く限り生命あらん限り一心につとめたのであります。釈尊はこういう譬喩を擧げて、人間生活も斯くあらねばならぬとお諭しになったのです。何百里と云う大森林をも一気に嘗め尽さんとする勢の猛火に向って、たった一羽の可憐の雉が、如何程もがいてみたところで、到底消し止めることは出来ないではないかと、これはさかしらな人間の詮議だてであります。大火の消えるか消えないかと云う利益を忘れてただひたすら精進を続けてゆく相こそは、実にいじらしくも尊い限りであると申さねばなりません。


時に帝釈天が雉の前に相を認じ「お前はそんな苦しいことを何時迄続けて行く積りか」と問われた雉は「死を以て期となす」私はこの仕事を為し続けて死をもって最後となすと答えて居ります。「それではお前独りで一生涯かかって大火を滅することが出来ると思うか」と問われた時に雉は自ら誓を立てて申されました。「我が心の至誠信にして虚しがらずんば火は即ち富に滅すべし」と

ああ!何んと云う尊い覚悟でありましよう。この雄々しい誓の前に何うして火が滅せずにあり得よう、果してこの時、「浄居天」は雉の弘誓を知って「即ち為に火は滅し給う」たのであります。(雑宝蔵経・雑譬喩経)

私共が、この人生に處して、日々布教を為す上に於ても、正しくこの雉の精進を手本として進まなくてはならんと思います。か弱い自分の力で何うしてこれが為し得ようかと坐して考えるよりは「至誠信にして虚しからずんば、火は常に滅すべし」この仕事は何うしても我等の力でやり通さずにはおかないと、この弘誓願を以て精進することです。

達磨西来の意は「吾れこの土に来る、もと迷情を救わんが為なり」と、これは大師久遠劫末の弘誓の信力であります。

数限りない衆生を済度し尽すことが出来るであろうか等と遠い先のことまで心配しなくともよい、何處迄も、「無辺の衆生を済度し尽そう」との覚悟を懐いて念々刻々、自分の渾身の力をつくして進んでゆくことであります。

而も「死を以て期となす」この精神は生命のある限り続けられるものであって「もうこれでよい」と云うことは決してないのです。

釈尊と云えども、達磨と云えども、先哲先賢、皆一生を捧げて修行と精進に終始されています。この秋は大洪水が出るか、大暴風雨が吹くか、先のことは全く解らぬけれど、今日一日與えられた仕事として田の草をとるのです。

大火事が滅するか、滅せないか、知らないけれど、今現に燃えつつある森林を見ては一刻もじっとして居られないから、雉は雉としてのあらん限りの力を尽して現前即今に處しているのです。

かくの如く現在の至誠一念を各自の持場に生かして行く精進の力は如何なる大火と云えども消し止めずにはおかないのでありましょう。

朝夕、四句の誓願文を唱えていた私ではありましたが、この時ほど出家の喜びを覚えたことはありません。元来褝は、その伝承せられて来た国土が、社会性の稀薄な東洋的風土であったという理由もありますが、あまりに宗教経験の事実(悟りの体験)が強調せられるところから、固苦しい哲学的思想めいた一面が強く前面に出たり、あるいは激しい向上の修行がやかましく主張せられたりするあまり「妙用」とか「遊戯」とかいう、宗教的用語の中に含まれているにもかかわらず、実践倫理的な「誓願」の一面すなわち「慈悲行」の一面が裏にかくされすぎている傾向があるのは一つの欠点と云うべきでありましょう。

けれども、もし禅に「誓願的な働き」がなかったなら、単なる宗教哲学になっても、宗教ではなくなってしまうでしょう。「誓願」のないところに真の宗教はありません。青年僧各位の精進努力を祈ります。