「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成29年2月〜】

 掲載号等  【第61号】:平成8年6月発行 

 妙興僧堂師家
 孤雲室稲垣宗久老師






出家まで
私は宮崎県の在家の出身です。小学校入学直前に母親を病気で無くしました。その時の状況や葬儀の様子を今でも克明に覚えています。朝、床から起きてこない母の周りを早くご飯を食べさせてと、泣きながら歩き回ったこと。膝を抱えるようにした母に生前着ていた着物や帯を掛けて、その上から切り藁を入れて棺の蓋をしたこと。小高い山の墓へ葬列を組んで登ったこと。墓に着くと、既に大きな穴が刧ってあり、棺にかけた白い哂しのような布着れを、緩めながら穴の中に納め、上をかけて埋めたことなど……。勿論、その頃「死」なんてことは、何も分かりません。後から「あ、あれが母の死だったのだ。」と思ったのであって、唯々、印象的出来事だったのです。
そういう思い出が、結果論ですが、この世界に入った幾つかの要因の一つになったのではないかと思います。
又、中学生の時、近くにもうじき結婚をするという青年がいました。婚約とか結婚という言葉に敏感な年頃で、「あの人はこれから幸せになるんだなあ」と子供心にそう思っていたのですが、その人が交通事故で亡くなってしまったのです。本来ならこれから結婚して幸せになる人が、この死によって約束されていた幸せを断ち切られてしまう。一気に不幸のどん底です。相手の人も同じです。死の恐ろしさというよりも、思い通りにならない現実を知らされたような気がしました。




仏縁をいただいて
高校を卒業して就職しました。田舎では、それなりの成績で自信ももっておりましたが、すぐに挫折を味わいました。学校での実力が社会ではなかなか通用しないことを思い知らされ「こんなはずじゃない」と。認めてもらえない自分、浮いてしまう自分がそこにいました。そんな中、自分でも理解できないような難しい本など無理して買って読んだりして、一生懸命背伸びしたり、新興宗教の集いにも仕事を休んで出掛けたこともありました。素直に自分自身を納得させるものがなく、物事にいちいち反抗する自分にやがて行き詰まってしまいました。
まあ二十才前後で誰もが経験する他愛もないこと。世間に対する無知や、甘え、そして挫折感。反抗的態度。虚栄心。果てには自殺を考えたりもしました。しかし、又一方では、いつかそれを乗り越えなければいかんという気持ちもあったんですね。その頃、たまたま浜松の興福寺の和尚を知り、仏縁をいただき、妙興寺の先々代、大渕窟河野宗寛老師を紹介していただき、つれてきてもらったのです。しかし、そうはしたものの、修行という認識は昔映画で見た剣の修行や超人的に体を鍛えると云った程度のものでした。そしてとにかく剃髪をし、安名も戴き大渕窟老師の弟子にして戴いて雲水生活がスタートしたわけです。初めて衣を着た時は、何故か嬉しかったことを覚えています。
その翌年秋、大渕窟老師が入院されると、隠侍として遷化されるまでお側において戴きました。この間、見舞い客の多さに驚いたり、長く寝たきりだと床ズレができ苦しむ人の多い中、全くそれがなかった老師の徹底した療養態度に感心したりして、貴重な体験をさせて戴きました。
老師が遷化され、名古屋の海国寺におられた先代の無位室老師が代参として僧堂へ出向されており、隠侍として勤めました。昭和四十六年春、正式に就任され、当初「儂より、隠侍サンの方が隠寮辺のことは良く判っているよ。」と苦笑されておられた老漢を思い出します。




再掛塔までのみち
無位室老師晋山の秋、浜松の興福寺に副住として帰りました。二十六才の頃でした。本山の方広寺から内局の部員にと要請があり、各種団体や個人の坐禅指導などをしておりました。
その研修会のうちに、「果たして自分に人様を指導するだけの力があるのか」という疑問を感ずるようになり、世間を欺いているような気がして不安が募り、だんだん研修会が苦痛になってきたのです。幸い妙興寺へは加担に来ておりましたので、昭和五十二年の春に妙心寺の微妙大師の遠諱のとき無位室老師の隠侍として参加させて戴きました。二百人近い雲水が梶浦逸外管長の提唱を聴いている光景を見て、深く感ずるところがあり、再行脚を決意しました。しかし自坊や寺族のこと、本山の部員としての職務等迷ってしまい、なかなか踏ん切りがつきませんでした。
それで何としても後戻りできないようにするため、自分で周囲に向かって「俺は僧堂へ帰るぞ。」といいふらして逃げ道を断ち、昭和五十三年春に再掛塔しました。三年から五年くらいを目安に暫暇しようと思っていたのですが、遠諱があったり、雲柄が減少したりでグズグズしているうち、この度の老漢の急逝に逢いこんな状態になったのです。全く夢想だにしなかったことでしたので、再掛塔の時以上に本当にいろいろと迷ったあげくの結論でした。




無位室のおもいで
先師無位室老漢には約十八年間に渡りお世話になり、参禅の師であると共に自分には親父でもありましたので、突然の発病で入院し「ダメ」と聞かされた時は、情けないことに呼吸がうまくできず、池の鯉のように口をパクパクとやっている感じでした。遷化され密葬直後は「どうでもなれ」と浴びるように酒を飲みました。こたえました。辛かったですね。
師はよく「わしは冗談など云って人を笑わせたりすることがあまりできない性分だから。」とご自分でも云っておられた如く、実直で温和な老師でした。大きな声で怒鳴ったりされたことなど、あまり記憶にありません。隠寮で静かに読書や漢詩、英会話の勉強などされる学究肌の人だったように思います。しかしそれでいて神経質ということもなく、ものごとにあまりこだわらない風でしたので、相手や時問も問わず相見されたり、また、頼まれごとも気安く引き受けたりされるものだから、後で日程のやり繰りやお金のことなどで在番時には困ったものでした。そして文句を云いますと「わしの室号は無位室だからな。」と笑っておいででした。




青年僧に望むもの
 「僧堂をひいて興福寺の住職になったら」と自分なりの構想を描いていたのですが、今はそれもできなくなりました。二十代の頃に何か寺らしいごとしなければと考えて、坐禅会や法話の会を企画して始めたのですが、回を重ねるごとにだんだんと出席者が減っていき、ついに尻切れトンボで終ってしまいました。その挫折感を引きずって暫くは惰性に流され、主体性のない無為の日々を送った苦い経験をしました。今にして思えば、意気込みだけで全てに未熟だった故もありますが、肝心な四弘誓願の教えを十分に理解せず徹し切れなかったことに尽きます。布教活動というものは本当に容易なことではありませんが、「徳雲の閑古錐の話」の如く、どんな事でも焦らず、腐らず、あきらめず、コツコツと四弘の誓願に鞭打っていくことが一番ではないかと思います。
 又、ろくにお経のも読めない新到時代、盆の棚経で檀家さんへ出向いた折、床の開の上座で立派な座布団に座らされ家族全員から深々とお辞儀をされたことがありました。
所詮、法と伝統の力が、檀家さんにそうなさしめた出来事だったのですが、鮮烈に記憶に残って居ります。このことをいつも心に抱いて、自ら慚愧の念を終生忘れないようにしないといかんと思っています。
同じようなことですが、寺での暮らしの中で余りにも慣れ切ってしまうと、ついつい布施や喜捨、その他もろもろを、世間から受けることを当然とする気風か生じ、人の苦しみや痛みに鈍感になって不陰徳をしがちになり易いので、常に「在家の側の発想」を大切にして、自分だったらどうかと当てはめて見るようにしています。
 特にこの面に関しては、なるだけプロ的でなくアマチュアであり続けたいと念じております。皆様のさらなる飛躍をお祈り致しております。