「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成29年1〜】

 掲載号等  【第16号】:昭和59年3月発行 


  妙興僧堂師家 挟間宗義老師


 「独語」


  上求菩提下化衆生 



 現在の日本を想う時世界中で現在の日本程恵まれている国はないのではなかろうか。経済大国と言われ、政治は安定し、情報は不必要に思われる程発達している。しかしながら現在の発展も終戦直後の焼野原の日本から誰が予想し得たであろう。正に無一物の国であったのである。

 しかしながらこの無一物の世界から生きる為には国民一人一人が心を一つにして頑張ったのである。物はなくとも復興せねばならないと言う使命観にもえた心が有った。現在は物にあふれ、安定した政治の下に人々は快楽の追求に汲々としている。青少年の非行は益々多くなり、産業界におけるロボット化は急速に進んでいる。したがって人々のストレスはたまり、精神的な不安は益々深まりつつある現状である。こんな時代こそ、宗教家としての使命は何かをじっくりと考えねばならない時である。

 上求菩提は一応僧堂生活においてなさねばならないが、現在の如く僧堂生活が一年、二年という事ではしっかりとした信念も自信も出来ないのではないか。泳ぎを知らない人が人に泳ぎを教える事は出来ないのと同じ事である。宗教とは何か禅とは何かを僧堂生活の間にしっかりとつかむべきである。それが出来得なかったならば住職となっても常に求道心を持ち続ける事が大切である。上求菩提、下化衆生とは二にして一つでなければならぬ、下化衆生なき上求菩提も又有り得ないのである。禅宗は自力の修行に重きを置くあまり社会を忘れがちになる弊があるが、現代社会と言う現実を直視せねばならない。僧堂を一歩出れば正に草深き事千丈である、経済的な理由で先生とか役所とかに務める兼職の住職が多くなって来た事はやむを得ぬが先生が住職ではなく住職が先生を兼ねているのである。しっかりとした菩提心を持って教場に向うならば、その場が即ち下化衆生の場となるであろう。

 又多くの寺院において寄附行為を行う事があるが、時々うちの檀家は難しく、けちだと言っている住職があるようであるが、これは思い違いをしているのではあるまいか。もし寺に協力しない檀徒があるならばそれはその住職の下化衆生が出来ていない為である。檀徒が悪いのではなく、住職の平生の心掛けが悪い為と思わねばならない。信施を受けんとするならば、平生法施をしていなければならぬ。法施もせずして信施を求むれば、それこそ地獄に入る事矢の如くであろう。法輪転ずる所 食輪転ずと言うではないか、平生常に慈悲心を持って人に接する事が大切である。全ての住職が布教が出来るわけではないが、やさしい言葉、人の為になる言葉で人に対する事は誰にでも出来る事である。寺に行けば心が安まり、住職と話す事は楽しいと言う事にならねばならぬ。そのためには寺は常に掃除が出来ていなければならぬ、いくら説教がうまくても寺に草が生えていたら、仏前の花が枯れている様ではなんにもならない。私は常々寺は道場でなければならぬと考えている。専門道場は住職を養成する道場であるが、各寺院は檀信徒の心のより所となる道場でなければならないと思っている。寺院が単に葬式、法事の儀式だけの場であってはならない、坐禅をし法話を聞く清浄な場所とせねばならない。しかしながら現状は道場としての機能をはたしていると思われる寺はかぞえる程しかない様に思われる。大衆禅堂とは禅寺の個々が皆大衆禅堂であらねばならぬ。専門道場だけにまかすべきではなかろう。そこで住職が道場主として本業の使命観に目覚める必要がある。私は常々皆に禅僧としてのプロ意識を持たねばならぬと言っているのであるがプロに徹する為にはまず道場において真剣に坐禅して努力精進をせねばならぬ、道場生活が唯住職する為の証明書に必要年限だけ居れば良いと言う考えの者が多くなっている事実は如何ともしがたいが、真に残念な事である。

 先般中外日報紙上において道場の在り方が色々と話されていたようであるが、問題はこの点に有る様に思われる。しかしながら臨済禅の命脈は専門道場に有り一人でも二人でもプロ意識に徹した人材を打出したいと思っている。二十一世紀に生きる青年僧の皆さん方は禅僧としてプロに撤し、禅僧としての自覚と、信念を持って上菩提を求めつつ下衆生を大慈悲心を持って導くと言う大誓願を起して頑張っていただきたい。禅は禅僧だけのものではない、一般大衆のものであり全世界人類のものでもある。白隠禅師の和讃の衆生本来仏なり、この身即ち仏なりを体験して物質文化に流され精神文化を失いつつある日本の現状を救わねばならぬ。コンピュータ化する事により人間性を消失しつつある人類を救い得るものは東洋の禅しかないと信ずるものである。今後とも青年僧各位の奮起を願うものである。