「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成29年1月】

 掲載号等  【第3号】:昭和56年1月15日発行 

 松原泰道師
 元・妙心寺派教学部長・東京・竜源寺閑栖
 現・日月庵主・南無の会会長 【掲載当時】
 

 布施なき経を読むべからず
 


 布施なき経を読むべからず”−という言葉を聞きます。日本文の特徴でもあり欠陥でもある主語の省略が、この言葉をいろいろに解釈させます。たとえば「お布施の出ないお経は読むな」と、自分に都合のよいように解釈するお坊さまも無くはないでしょう。しかしそれは大変な曲解です。“布施なき経を読むべからず”を正しい文章にすると、「お坊さまは、布施の伴わぬ読経をしてはならぬ」となります。さらにいうと、布施とはお坊さまが頂くお礼ではなく、お坊さまが作すべき布施行の一つである法施の伴わぬお経を(お坊さまは)読んではならぬ ということです。



 心からお経が読めたら「布施(法施)のある読経」です。しかし、それは言うは易く行い難い、のが事実です。私なども、この年齢になってこのことを振り返って見ると、まことに恥しい次第です。私の祖父や孫の死に際して読んだお経ぐらいが、まあ真剣な読経でありましょう。私は、この悔みを持ちつつそのつど経典を読誦します。この悔恨をさんげする営みが法施を教化活動に転じようと実践しています。私たちは、昔から漢音や呉音でお経を読みなれているので、一般の人には全くといって内容がわかりません。一座の経が真剣に読誦出来ず、深い内容も参加者の心に伝わらなかったら、一体どうなるでしょう。死者を冒涜し、生者を欺くと申したら過言でしょうか。



 「法要」とは、読んで字の如く「法のエキス」です。読経の際に数分の法施を怠るなら忌むべき”布施なき経”となります。人の前で語るのが苦手なら、ご自分でカセットテープに録音し再生して聞いてもらったらいいでしょう。門塀や本堂での掲示伝道も一法です。施本という手もあります。要は、法に深切であること、そこに種々の方法が浮んで来ます。



白隠禅師は、若いころ行脚先きの寺で『沙石集』を読み、「いかなる高僧でも、他に尽くす願いを持たぬ修行であるなら、その高僧は邪道を行ずる者、地獄必定」とあるのに、強く心を打たれたといいます。和尚の終生の大布教の願心が、このときから修行に励む因となったと思われます。



 先きごろ死去された浄土真宗の大原性実和上が「仏教を道心を持つことなくして学び、その知識だけで人に仏陀の教えを説くなら、それは説法でなく謗法だ」と語られたのを読んで、私は自分に深く戒しめております。



 菩薩の通願である『四弘誓願』の内容は、宗旨によって若干の字句の相違はありますが、第一句の「衆生無辺誓願度」は、各宗に共通です。ということは、修行も信心も読経も布教もこの七字に帰せられる、ということでしょう。この事実がわかると”布施なき経を読むべかず“を正しく理解することが出来、私どもの使命が、どこにあるかも判然といたします。