「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成28年2月14日〜】

 掲載号等  【第95号】:平成23年10月1日  

 萬仭軒 田中義峰老師
 虎渓僧堂  師家 【掲載当時】
 
 日々是好日 (その3)

 
※その1はこちらをご覧ください。

※その2はこちらをご覧ください。

 

禅の教え
今、ちょうど紫陽花の花の時期で「紫陽花やきのみの誠けふの嘘」という俳句を作った人がいる。有名な正岡子規、明治時代の俳人です。この人は三十六歳で亡くなっていますが、その最期の言葉の中に「自分は禅というものは、いつでも死ねる覚悟を持っておる、そういう気力を養うことが禅だと思っていた。しかしよく考えてみると、いかにこの生を生きていくか。死ぬ覚悟ではなくて、いかに生きていくかが禅であった」と言っています。子規はご存じのように、カリエス結核で非常な痛みを抱えて亡くなっていった人です。けれども最後にはこういう言葉を語っている。これもまた「日々是好日」につながってくるものです。昔、鎌倉時代に武士が禅に傾倒していったが、武士は刀で相手を殺さなければならない。そういう姿が正岡子規は禅だと思ったのだが、そうではなかった。いかに生きていくか、これが禅の教えだと思いました、ということを言っていたのです。




我を捨てる
雲水への教えの基本は「越州の無字」だね。要するに我というものを坐禅をしながら切っていってもらう。それにはやはり時間がかかります。これは頭のいい人ほど我を強く持っているので、これをいったん切ってやらなければならない。この我をとっていくことによって無心に近づいていく。「私」というものがなくなっていけば相手と一枚になれる。徹底してその人の我を切ってあげる。そのことで本来の自己に目覚めていく。囗でいうのは簡単だけれども難しいことです。でもやってもらわなければ困ります。
雲水によく言うのだけれども、本当に「無字」を徹底できたなら千七百の公案というのは解けちやいます。だけど白隠さんが「無字」だけじゃ六年もやっていられないから、公案体系というのを作られたわけだ。どこかの公案にひっかかって「無字」を本当に喝破するのではないかというのがねらいどころですね。これが白隠さんのやり方、公案禅がそういうことになっているわけです。だから変な我は捨てていただきたい。







青年僧へ
「らしく」ということだね。和尚さんは和尚さんらしく。青年僧は青年僧らしく。若い人にはいろいろな発想があるじゃないですか。すべて同じことをしろというわけではない。それぞれに得意分野もあるだろう。けれども仏教というものは、お釈迦様の永遠に続く教えなんです。人間というのはやはり宗教がないと生きていけない。これを自分らもしっかりと学んでいかなければならないと思う。ゲーテの言葉に「芸術と哲学を愛する人は、いずれは宗教の道に入って行く。はやくから宗教に入ったら芸術は生まれない」と言っています。だから青年僧は青年僧らしく、その基本は慈悲。仏教というのは慈悲の宗教なんだから人の悲しみを、我が悲しみと思って手を差し伸べていくのが仏教者の生き方なんだ。だから震災で困っている人があれば助けに行く。向こうへ行って何らかの形でお手伝いすればいい。それができなかったら祈るしかしようがない。これはあまりにも消極的なようだけれども、この祈りの力というのはあるものです。やはりその人その人の務めに尽くしていくということです。




(終り)