「先祖供養と仏教」  山折哲雄

 
大衆歌謡に見る日本人の慰霊の形

 最近、靖国の問題が年々大きな社会的な問題になっております。当然宗教との関係でも話題を呼んでいるわけであります。 わが国の首相がこの季節、特に八月十五日、靖国神社にお参りをいたしますと、国内の世論が二分されてしまいます。そればかりではなくて、韓国や中国から厳しい批判にさらされます。 一国の首相の行動が右往左往する。本当に情けない話だと私は思っております。この靖国神社に祀られている英霊の方々に対して、一国の首相が参拝することによって、これは真に霊をなぐさめる慰霊の行為につながっているのかどうか。 この根本問題がいつもあいまいにされてしまっているのではないか。政治的にだけ議論されて宗教的にはほとんど議論されていない。魂とか霊とかいうものが棚上げされてしまったまま靖国問題が年々政治的な薄っぺらな水準で議論されてしまう。 最初にこの問題から入ってみたいと思います。いろいろ歴史的な、大変な誤解がいままで行われてきたと思っておりますので、その辺のところから始めることにいたします。

 昭和三十二、三年ころだったと思いますが、島倉千代子さんの「東京だよおっかさん」という歌が大ヒットしました。もっともいま大学で四十代の先生方に言うと、そんな歌聞いたことがないと言います。 五十代以上の方々は耳の奥底に鳴り響いている、そういうお答えが返ってきます。私も学生時代からよくあの歌は口ずさんでいましたし、親たちもあの歌が歌われるときは、母親なんかはラジオの前でしがみつくようにして聞いていた光景を思い出します。 実はあの歌は3番からなっておりまして、田舎からお母さんが東京に出てくる。男の子を戦場で失って、その長男の霊をなぐさめるために、田舎から東京にやってくる。東京にいた娘が、その母親を案内して三カ所の霊場をお参りするという組み立になっております。 歌詞が野村俊夫さん、作曲が船村徹さんです。私以前、船村徹さんとNHKの番組で、下北半島の場末の居酒屋で焼酎を飲みながら、演歌のことを語り合ったことがあります。もう十年以上も前のことです。なぜ演歌は北方を主題にするのかというようなところから話は始まったと思います。 二人で焼酎をちびりちびり飲みながら、一時間あまりお話をしてお別れするときに、船村さんがこういうことを言われました。自分はいまある仏教教団からご詠歌の作曲を頼まれている。若者たちの心に響くようなものを作曲して欲しい、そういわれてここ一、二年苦労しているのだけれど、これがなかなか出来ない、 こう言っておられたのを私は忘れられないで覚えております。最近ちょっとした奇縁で船村さんと手紙を交わす機会がございまして、じつはご詠歌を2曲作曲したのだと言われました。しかしそのご詠歌を私はあまり聞いたことがありません。世間でも話題にならなかった。 本当のところはお作りになったけれども、ご詠歌としては失敗したのではないかと思っているんです それはともかく、船村さんという方は日本人の伝統的な心情、信仰心というものを実に深いところから曲にされる方だと、かねがね思っております。演歌巡礼なんていう言葉をつくられたのも船村さんです。ご自分の作曲された歌を刑務所とか救護院というようなところに行って、そういうところの若者たち、刑に服している人たちに聞かせる仕事をしておられる。 そしてこれは自分の演歌巡礼なんだと言っておられた。その点でも大変尊敬しておりました。「東京だよおっかさん」はその船村さんの作曲です。

 最初は田舎から出てきたおっかさんを娘が二重橋に連れていく。その次が九段、靖国神社。最後に浅草の観音様に連れていきます。三カ所の霊場巡りだというのがこの歌の重要なポイントだと私は思っております。当時の平均的な日本人の心情。亡くなったお兄さんをなぐさめるための行動として、どうしてもこの三カ所が必要だった。 こういう認識、そういう考え方を曲の中にしみ込ませようとして作曲したのが「東京だよおっかさん」です。歌詞はご存知だと思いますがちょっと申し上げます。

 一番は、「久しぶりに手を引いて 親子で歩けるうれしさに 小さいころが浮かんできますよ おっかさん ここが ここが 二重橋 記念の写真を撮りましようね」

 私も大学を出て東京に出てまいりまして、母親が久しぶりに東京見物にやってきました。どこに一番最初行きたいか聞きましたら、まず二重橋に連れていってと母親は言いました。それで私は母親を二重橋に連れて行き、一緒に写真も撮りました。別にこの歌を聞いていたからではなかったと思います。自然にそういう行動に出るようになっていた。 戦後の三十年代でありますから、戦争の傷跡が東京のあちらこちらに残っていた。

 二番は九段です。「やさしかった兄さんが田舎の話を聞きたいと 桜の下でさぞかし待つだろう おっかさん あれが あれが九段坂 会ったら泣くでしょ兄さんも」  九段の英霊に会いに来た母親の姿です。ところが三番目はこうです。

 「さあさ着いた着きました 達者で長生きするように お参りしましよう 観音様ですおっかさん ここが ここが浅草よ お祭りみたいににぎやかね」

 私いまにして思いますと、これは戦争で子供を失った田舎の母親が、四国の八十八の札所霊場を巡るような気持で東京に出てきた。あるいは西国三十三観音霊場を巡るような気持で東京の三つの、戦争の記憶と深く結びついた場所をお参りする、そういう歌だったと思います。 さらに言えばこのおっかさんと娘は二重橋に行って並んで写真は撮ってはいるけれども、しかし息子が、兄さんが亡くなったことで、本当に心はなぐさめられてはいない。それで九段に行こう、息子が、兄が英霊として祀られている九段に行くわけですけれども、私はそれでもなおそのおっかさんの哀しみは癒されてはいないと思う。最後になって、浅草の観音様に来てほっとする。そういう親娘の姿がこの歌には実によくうたわれている。

 天皇信仰、神信仰、そうして仏信仰、その順を踏んで最後の観音さんにお参りして笑顔が出てくる。癒されている。これが私は当時の日本人の平均的な、心のもっとも奥深くに流れていた信仰心だったと思っております。 ところが今日の靖国問題はどうか。一番と三番、とりわけ三番を全然問題にしない。仏のことを全然問題にしていない。本当の慰霊、霊の慰めというのは靖国だけでは完結しないのです。しかし今日、そうはなっていない。これが戦後五十年、日本人の信仰がぐらぐら揺れてきたはての結果ではないかと私は思っている。現に昭和三十年代、田舎の家に帰りますと、そこには必ず神棚が祀られ、仏壇が祀られていた。 そこにご先祖さま、ご先祖の神々、仏たちが祀られていて自然に共存していたわけです。これは都会でもそうだった。そうしてもう一つご真影があった。三位一体、三点セットといってもいい。それを巡り歩くことがそのまま東京巡礼の形になっていた。それが島倉千代子の「東京だよおっかさん」という歌の真実だったのです。だから多くの日本人の心に響いた。大変なヒットになったのだと思います。

 当時の共産主義者で、いまはもう七十を過ぎている友人、この「東京だよおっかさん」を言葉の上では否定した男でありますが、その友人があの時代、じつは心の底ではこの歌を歌っていたと言っていました。これが偽らざる日本人の心情だったのだと思います。 私は、靖国問題というのは「東京だよおっかさん」から出発しなければだめだとよく言っているんです。靖国だけの問題で考えていたら、日本人が死者に対していかなるを供養をしてきたのか、死者の霊をなぐさめようとしてきたのか、その根本のところが分からない。そこへいくとやはり大衆歌謡というのは押さえるところをちゃんと押さえている。

理想的な神仏共存信仰

 ところがこれには戦争中にも似たような話があるのです。軍国歌謡としてよく知られ、よく歌われた歌に「九段の母」というのがあります。「東京だよおっかさん」は「九段の母」の戦後版だと私は思っております。おそらく船村徹さんはそのことを意識していたと思います。その勘どころをご紹介します。

 戦後五十年、「九段の母」は人前で歌うことの出来なかった歌です。軍国主義を宣伝するような歌だといわれてきた。これは作詞が石松秋二、作曲が能代八郎、もうほとんどだれも知らない名前でありますが、やっぱり田舎から母親が上野駅に出てくる。何となく故郷は東北のにおいがする。私も故郷は東北の岩手県です。

 一番 上野駅から九段まで かって知らないじれったさ 杖をたよりに一日がかり せがれきたぞや会いにきた

 二番 空をつくような大鳥居 こんな立派なおやしろに 神とまつられもったいなさに 母は泣けますうれしさに

 問題は次の三番です。
 両手合わせてひざまずき 拝むはずみのお念仏 ハッと気づいてうろたえました せがれ許せよ田舎者

 九段に行って、靖国神社の前にひざまづいて、手を合わせて出てきたのがお念仏です。―このような歌を、果たして軍国歌謡といえるのか。むしろ靖国神社崇拝というものに対する、正面からの批判ではないか、そういえば言えなくもないではないか。もっともそんな大それたことではないでしょうけれども、普通の日本人なら手を合わせればお念仏が出る、ということです。

 四番 鳶が鷹の子生んだよに いまじゃ果報が身にあまる 金鵄勲章が見せたいばかり 会いに来たぞや九段坂

 ここで一応「九段の母」として締めてはいるのです。この作詞家が一番に言いたかったことは、両手合わせてひざまずき 拝むはずみのお念仏 はっと気づいてうろたえました、ここのところではないのでしょうか。神に対する慰霊の気持と仏に対する供養の気持が矛盾なく両立しています。表裏一体になっています。これが伝統的な日本人の信仰です。 そのことをうろたえて恥ずかしいと言いながら、そういう行動に出ている日本の母親です。こういう日本の母親たちには感動します。これを忘れて靖国の問題、神の問題だけで議論をしているから議論が深まらない。日本人の伝統的な信仰心のその底に触れることが出来ない。情けない姿です。

 すべては明治維新の神仏分離、廃仏毀釈に始まるのです。それを元に戻そうという動きが仏教界からも神道界からも出てきております。神道は神道、仏教は仏教で別れておりますがそうではない。明治維新の神仏分離以前の状態に日本人の信仰のあり方を戻そうという運動が、いま少しずつ出てきております。当然のことであります。 日本人の信仰は一神教ではない、多神教である。神仏信仰という、宗教の共存状態を考える上で理想的な形態の一つだと思っております。残念ながらこういう教育を日本の大学、宗門大学もしてこなかった。したがって教団もしてこなかった。その矛盾がいまいろいろなところに噴出してきております。

霊魂に対する日本仏教の態度

 私事になって恐縮でありますが、私は東北大学印度哲学科というところで勉強いたしました。そのときの印度哲学の師匠が金倉圓照先生。印度哲学の専門家で定年でおやめになって東京においででしたが、亡くなれて、葬儀を築地本願寺でやることになりました。私も岩手県花巻の浄土真宗の末寺の出身であります。  金倉先生も九州鹿児島の坊津という最南端の地でお生まれになった、浄土真宗のお寺のご住職でした。宗門は同じであります。葬儀では、学会の様々な先輩方がおいでになった。私は教え子でありますから隅のほうに控えておりました。やがて弔辞をうかがっているうちに、おかしな気分になってまいりました。なぜかというと弔辞の冒頭に、  「謹んで金倉圓照先生の御霊に申し上げます」こういう言葉が必ず出てくる。もう実名を出してもいいと思いますが、中村元先生がその言葉をお使いになられました。平川彰先生もお使いになりました。そのほか錚々たる仏教学者の方々がほとんど例外なしに、「金倉先生の霊に申し上げます」、―霊という言葉をお使いになられた。 だんだんに気持ちがおかしくなってまいりました。というのは印度学の学生時代、仏教では霊を語らない、あるともないとも言ってはいけない、と教えられていたからです。これは禁句だったのです。霊魂という言葉を使ってはいけないということを、耳にたこができるほど聞かされてきた。皆さん方もそうではないでしょうか。 にもかかわらず何ぞや、錚々たる仏教学者の方々がそういう言葉をお使いになる。まだ私は四十代の後半で若かった。それでそのあとのお酒の出る席で、先輩諸侯のいる場で「自分は大学時代仏教というものは霊を語らないと教えられてきたけれども、先生方の弔辞の中には、その霊という言葉ばかりが出てきていたが、これはどうした事か」 というようなことを言ったんですね。一座はシラーッとして、いたたまれない思いをしたことがあります。あのときのいやな気分はいまでも覚えています。こういうことは二度と言ってはいけない、と自らを戒めました。

 そういうことが起こってから数年が経ちました。あるときハッと思いました。自分の浅はかな気持でそういうことを言ったことに気がついた。本当は、仏教は霊魂を否定したわけではない。印度の仏教は確かに教典のレベルでいうと霊魂の有無を語ることを禁じている。その理屈を中国仏教でも継承している。  日本の仏教もテキストの上では継承している。けれども現実の場面ではそうではない。特に日本の仏教では霊魂問題は当初から重要な役割を果たしていた。歴史を調べていけばいくらでもそういう証拠が出てくる。

空海、源信の霊魂観

 例えば空海。空海の代表作の一つに『性霊集』という作品がありますけれども、あれは天皇を初め様々な死んだ人の追悼の場面、葬儀の場面のために書いた文章を集めたものですが、それがみんな「尊霊に対して」と書いてある。あの大空海和尚が仏教のそういう建前の議論を否定している。最澄だってしかりです。  神祇不拝を最もラジカルに説いた親鸞においてさえ、その和讃の中に聖徳太子の霊という言葉を使っております。そういう日本仏教の伝統を無視して、仏教は霊を説かない、というどこから降ってわいたか知りませんけれども、そういう頭だけの理論で日本の近代仏教学というものが作り上げられてきた。

 それから浄土信仰の集大成をした人といわれている源信僧都がそうです。『往生要集』を書いた人です。この中には霊魂という言葉は一言も出てきませんけれども、源信さんは比叡山で二十五人の念仏の同士を集めて修行をしていた。その同士の中から死者が出たときに死者儀礼をやる詳細な規約を作っている。  そこには葬儀の次第が出ておりまして、この中に「死者の尊霊を浄土に送る」と書いてある。建前では霊魂を否定しながら、つまりそれは『往生要集』の世界ですが、しかし葬儀の実践においては尊霊とはっきりいっておる。そこで、これはもう少し歴史を見直さなければならないと思うようになりました。

万葉人の霊肉二元論

 万葉集、これは七世紀から八世紀にかけて様々な階層の人々が歌った歌を集めたものです。編纂者の有力な一人が大伴家持。あの万葉集の中に死者を悼む歌がたくさんおさめられています。戦後の国語教育、文学教育では万葉集というと相聞歌、愛の歌を中心に説明が行われてきました。  しかし万葉集の世界というのは愛の歌と死の歌なんです。相聞歌、挽歌、これが両々相まって初めて古代万葉人の精神世界がよく分かるのに、一方の挽歌の世界を切り捨ててしまってきた。ところがこの挽歌を読みますと、そのほとんどが、人は死ねばその遺体から霊魂が抜け出て、それが高いところへのぼっていく。 そういう意味の歌がほとんどです。高いところは山です。霊は山にのぼる。山の頂上あるいはこれを取り巻いている雲、霧、そういうところに霊魂はのぼっていく。これは聖武天皇の場合でも柿本人麻呂の場合でもそうです。名もない農民たちの歌でもそうです。

 それでは後に残された遺体に対してどういう関心が払われていたか、ほとんど関心らしい関心が払われていません。まして況や白骨化した遺骨を収集したり、納めたり、拝んだりということは一切ありません。風葬にまかせている。全くの散骨です。万葉古代人にとって関心があるのは唯一魂の行方です。  つまり霊魂と肉体が分離したり、結合したり、私はこれを霊肉二元論だと思っている。

 最近わが国では脳死臓器移植ということが大きな話題になっている。どうも日本人というのは脳死臓器移植についてアレルギーを持っている。なかなかこれを受容しない。そういう例があまり出てこない。ドナーも少ない。これだけ大宣伝しながら臓器移植の事例はあまり多くない。  しかし古代万葉人が現代に生き返ってきたら、こういう現象を不思議に思うでしょう。古代万葉人にとって大事なのは霊魂だけだったからです。あとに残された遺体は魂の抜け殻です。カラスに啄まれようと野犬に食われようとかまわない。万葉人は喜んで自分の臓器を差し出したのではないでしょうか。

山の神と山の仏との融合

 なぜそれがそうはならなかったのか。私の仮説というか想像では、やがて仏教が日本に入ってきて、体と心は一体のものだという考え方を広めたからです。ところが万葉人は心と体はいつでも分離するという考え方でした。

 仏教ではなぜ心と体は一体のものかといいますと、仏教のすべての宗派に共通する基本的な実践は、坐禅瞑想だからだと思います。心、魂、あるいは霊的なものが自分の体の中にきちんとおさめられて、臍下丹田に安座している。そういう姿を理想視してきた。印度以来、ヨガ以来の伝統といっていいかも知れない。つまり心身一元なんです。  これが入ってきて二重構造化した。古代的、万葉的な霊肉二元の考え方の上に、仏教的な新しい心身一元の考え方が重なったから腰が据わらない。どちらにもいくようなメンタリティーがそもそもの日本人の心のあり方、体のあり方です。そういう仮説を立ててみたわけです。

 古代万葉人の霊肉二元の考え方をもう少し別な言葉で言えば、それが神道の根本的な世界観、人間観にもなっている。神道の世界ではやはり魂の行方が第一義的に重要です。森に魂が宿っている。山に命が宿っている。これが神道感覚、縄文時代以来の感覚といっていいかもしれない。これに対して仏教感覚というのは心身一元の考え方から成り立っている。

 古代万葉人は死んだ人間の霊魂は山に登るといった。それがやがて時を経て山の神になる。山の神は一年のうち特定の時期を限って里に下りてくる。お祭りをうけて祭りが終わればまた山に帰っていく。正月、お彼岸、お盆がそういう季節です。山を媒介にして死者の霊魂が里といったり来たりする。こういう構造がいつのまにか出来あがっていました。  山の神を祀るところは山の中にたくさんありますが、より清らかな神は山頂近くに祀られる。ここへ仏教が入ってくるわけです。仏教の中で死後の運命に深い反省を凝らしたのが言うまでもなく浄土教であります。印度浄土教が考え出したものです。死んだ人間はどこへ行く、西方十万億土の彼方に往生する。西方というのは太陽の沈む方向です。人間もその方向に死後往生するという考え方です。 西方信仰、すなわち浄土信仰です。分からないのは十万億土の彼方、無限の彼方ということでしょう。仏典にはそういう無限大を表す言葉が実に多い。インド人というのは形而上学的というか抽象的というか、感覚的に捉えることの出来ない世界を、自由自在に創造していく点ですごい才能があります。そういう無限大の世界を考えることが出来るから、ゼロという無限小の世界を発見することが出来る。 ゼロを発見したのは七世紀のインド人です。ゼロを意味するシューニアというサンスクリット語が仏教で言う「空」という言葉と同じです。宗教的真理、数学的真理が同じ言葉で表現されている。だからゼロは単なるゼロではない。こういうインド人的な感覚は、われわれにはない。人間死んだら西方十万億土へ行くという考え方が、朝鮮半島を経て日本へ入ってくるとどうなるか。日本人は言葉の上ではそれを受け入れた。 テキストの上でもそう書いている。空海だって最澄だって聖徳太子だってそう書いている。ところがその浄土というものを、実際に当時の日本人がどこを思いだして言っていたかというと、決して西方十万億土の彼方ではなくて、じつは山だったのです。浄土は山にありと読み替えたと思います。日本列島にはたくさんの山々があります。国土の七五パーセントが山と森に覆われております。こんな国は世界広しといえどもそうはない。 カナダとか北欧三国にちょっと見られるくらいです。この大小さまざまある山に入ると、例外なく山頂近くのところに「阿弥陀が原」だとか「浄土が峰」だとかそういう名称がついている。谷間近くへいくと「地獄谷」という地名がついている。その近くには「賽の河原」がある。そのまん中にお地蔵さんが立っている。私はこれを3点セットといっております。アジアの仏教圏でこの3点セットを持っているのは日本だけであります。 そうすると山を中心とした浄土信仰というの日本仏教の特徴だという以外にない。それ以前の神道感覚、古代万葉人が山に対して抱いた感覚とこの仏教の考え方がやがて重なった。古代万葉人は死んだ人の霊魂は山にのぼるといっている。仏教が入ってまいりまして、人は死んで仏になる、浄土へいく、これが山の頂上だ、と考えた。ここで仏と神とが合体する。死者のことを死者仏というのはそこだと思う。 古代万葉人にとっては単なる死者だったものが、仏教が入ってくることによって神の世界と仏の世界、神道感覚と仏教感覚がここでピタッと一体化してそうなった。そういう神仏信仰が日本の仏教の根幹をなすようになった。

自然の中の神と仏

 ところで、明治以降の近代仏教学というのは、ヨーロッパの合理的な仏教学の影響を受けております。原始仏教では霊魂を説かないといったら、それをそのままラジカルに主張したわけです。しかし歴史的にたどってみると、印度で発生した仏教は中国、朝鮮半島を経て日本へ入ってくることによって変質している。それは日本の土着の信仰、神道の感覚と一緒になったからです。ここで初めて日本人の心に響く仏教になった。  二重構造化している。だから最澄は比叡山に根本中堂を開くときに、あの山の上の神々にちゃんと仁義を切っています。礼拝して祠を建てている。空海が高野山を開いたとき、やはりそれ以前からあそこに祀られていた神々をちゃんと手厚く祀っております。そういう神仏共存の路線を作り上げた。そうしてわが国における山の仏教が作られていったのです。

 私は日本の仏教は、山の仏教として初めて大衆化したと思っています。人々の心の中に浸透するようになった。これが平安時代、空海、最澄以来です。それ以前の奈良仏教というのは都市仏教です。都市にある法隆寺とか東大寺というところにお坊さん方が集まって、中国伝来のテキストを研究していた。学問仏教、知識仏教であります。今日の大学仏教といってもいいかも知れない。これはまだまだ日本人の心に触れるような信仰にはなっていない。  それは、山の仏教として平安時代から始まると思っていい。印度の仏教と日本の仏教は違う、中国の仏教と日本人の仏教も違う、そういうところから出発しなければいけないのではないかと思っております。

 それから山の仏教という場合に重要な意味を持つのは、山そのもの、森そのものであります。森、山は単なる森、山であったわけではない。山そのもの、山から流れる清水、川の流れの中に神の姿を感じ、仏の気配を感じる。これがやがて日本人の神仏教信仰のもう一つの性格をなすようになっていったと私は思う。

日本人にある宗教音楽の伝統

 また流行歌の話をしてみようと思います。「星影のワルツ」という歌謡曲があります。昭和四十一年に発売されたもので、歌ったのが千昌夫という人です。私は岩手県ですから、千昌夫さんは岩手県が世界に誇る歌手だと思っております。岩手県には宮沢賢治だけではない、千昌夫を出しています。彼は「北国の春」でアジア全域に大変な大ヒットを飛ばして大変な人になったのですが、やがてアメリカ人のシェパード夫人と離婚をして世間をさわがせることになりました。  慰謝料二億円。そのころ彼は社会的に大変なバッシングを受けたわけです。日米経済摩擦が盛んなころです。離婚慰謝料のために二億円アメリカ人に払った。経済摩擦を緩和する上で非常に大きな役割を果たしたのだ、あまりいじめるなよと言っておりましたが、そのあとがいけない。ハワイにホテル買ったり、あちらこちらに不動産買ったりして、借金山のように作って、まだその借金を返せていないようです。

 その彼が昭和四十一年に出した「星影のワルツ」、これは別れの歌です。そのころ卒業式の季節、転任の季節になると、あちらこちらでこの歌が歌われた。夜の酒場に行くと必ず聞こえてきたものです。作曲した人は遠藤実さんです。北陸の血が作った曲です。「星影のワルツ」、ヨーロッパ風の軽快な感覚で作られた曲ですが、その中にご詠歌調が出てくるんです。当時歌っている人は気がつかなかったかも知れないけれども、遠藤実さんは明らかにこの歌にご詠歌の調子を意識的に導入しようとしたと思います。

 人前で歌を歌うな、と親父に言われておりますけれども、一つやってみます。

 「別れることは辛いけど
  仕方がないんだ君のため
  別れに星影のワルツを歌おう
  つめたい心じゃないんだよ
  つめたい心じゃないんだよ
  いまでも好きだ死ぬほどに」

 ワルツ調の中に見事にご詠歌調を入れているじゃないですか。「冷たい心じゃないんだよ」というところでチーンとやりたくなります。これはいままで申し上げたこととちょっと違うかも知れませんけれども、私はご詠歌というのは大衆的な宗教歌だと思っています。この源流は山の宗教から発している。天台の声明から出ていると思う。慈覚大師が中国に行き五台山巡礼をいたします。そこで印度伝来の念仏を耳にする。それを日本に持ち帰って声明にしたというふうに言われております。  この天台声明が、やがて真言声明とか、浄土教声明、さまざまなものに分岐していきます。日本人の心に一番大きな影響を与えたのは、やはり江戸時代以降の三味線音楽、浄瑠璃、義太夫、長唄だと思います。これがやがてご詠歌になる。浪花節、あるいは新内といったものにも受け継がれる。明治以降はこれが歌謡曲、今日の演歌、さまざまな大衆歌謡の世界に大きく影響を与えたのです。だから船村徹さんも、若い世代のためのご詠歌を作ろうという気持にもなる。声明からご詠歌に至る宗教音楽の伝統を抜きにして、日本人の信仰というのは語れない。

文化の違いによる仏教観の違い

 本筋からちょっと話は外れますけれども、私はインドが好きで何度も行っておりますが、何度目かのときに、ある一つの音楽の実験をしたことがあります。  日本人の伝統的な宗教音楽の幾つかを持っていったのですが、これをインドの方にお聞かせしてどういう反応があるか、もちろんご詠歌、浪花節、それから浄瑠璃、民謡、聞かせてみたのですが、ほとんどのインド人が一分と持たないのです。  仏教の本流はインドじゃないか、その本籍地において、日本に伝わった仏教音楽、これに全然関心を持たないとはどういうことか。この実験は失敗だったなと思いました。ところがあるとき、街を歩いていてハッと思った。  ヒンズー教の寺院でお葬式をやっておりました。宗教音楽の演奏をしていた。ぼんやり聞いておりましたら、その音楽が何と実に快活でリズミカル、騒々しい音楽です。ジャズコンサートかロックコンサートに出ているような感じでした。  わが国の寺院における葬儀、あるいは神社における祝詞奏上の場面とは似ても似つかぬものです。これは音の世界が全然違うのだ、音楽に対する嗜好がインド人と日本人じゃ全然違うのだと思いました。いってみればインド人の音楽の嗜好というのはメジャーコード、長調が中心。 シンバル、ドラムをたたきにたたいて快活にやる。これに対して日本人にとって親しい音楽は、短調だ。陰々滅々としている。演歌調、ご詠歌調といっていいかも知れない。例外なく日本の宗教音楽の主流を占めているのはマイナーコードだ。それが判らないまま、我々はインドの文化を誤解していた。 インドの宗教、インドの仏教を誤解していたのではないか。

 いつかNHKでおもしろい特集番組を作っておりました。日本の代表的な流行歌を東南アジアの五カ所でどんなふうに歌われているか調べたのです。ソウル、シンガポール、香港、マニラ、それからバンコクだったと思う。夜の酒場に行って調べたら、至る所で日本の演歌、歌謡曲が歌われている。  その土地の若者たちがマイクを争って歌っている。日本の演歌もそろそろ世界化してきたというような解説で、その番組は終わっておりました。これを私は見ながら、いや、日本の演歌、流行歌は絶対にインドには上陸しないよと思っていたら、その通りでした。いまだにインドでは日本の歌謡曲を歌うような所はありません。  これはやはり先ほどのマイナーコードとメジャーコードの違いです。そう思ったときに、これは仏教において重要な無常といった考え方についてもいえると思った。無常に対する考え方が、お釈迦様が考えた無常観というものと、日本人が考えた無常観は違うのではないか。お釈迦様の考えた無常観はおそらくメジャーコードですよ。 形あるものは必ず滅す、と突き放していっているわけで、この世の中にあるもので永遠なるものは一つもない、そのことを客観的に言明している。そういう乾いた仏教です。原始仏教。ところがこの乾いた仏教が日本に入ってくると、湿った仏教になる。それは平家物語の冒頭を読めば分かるわけです。祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり   これを平家琵琶でベンベンベンとやると、その陰々滅々ぶりで本当に死の底に引きずり込まれていくような気持になる。乾いた仏教と湿った仏教、乾いた無常観と湿った無常観、ここのところを押さえないと、人間の死後の運命に対する考え方の違いが分かってこない。

 万葉古代人が死者の魂は山にのぼると言った。その樹木の頂上にのぼっていって、そこで山の神になるのだといった感覚です。これはやがて湿った無常観、平家のあのセンチメンタルな、叙情的な無常観になっていったんです。自然の中に包み込まれる、母親の中に包み込まれるようなあの感覚です。あるいは山そのものに魂が宿っている。  森そのものに死者の命が鎮まっている。その生暖かい自然と人間との一体感覚。しかしこういうのはインド人にはありません。特に北インドは至る所砂漠です。乾いた思考がそこから出てくるのは当然です。近代以降の日本仏教学はここを誤解しました。インドの仏教はそのまま日本の仏教と同じだと考えてしまった。釈迦は霊魂を云々するなといった。 それをそのまま頭の上でのみこんだだけです。しかし日本人の千年の伝統はそうではなかった。

自然の中に先祖をみる日本仏教

 ところでご詠歌というと、私は般若心経のことを考えなければいけないと思います。しかし私はそれを暗記していない、読誦したこともありません。それは浄土真宗の家に生まれたからです。ところが、さまざまな宗派の方々が合同で何かなさるとき、必ずこの般若心経が出てくる。しかし自分はそれを一度も教えられたことがない。  日本の宗派の中で浄土真宗と日蓮宗は絶対に般若心経を唱えませんね。最近はそうではなくなったかもしれませんが。親父もたどたどしく、合同の慰霊祭なんかやるときには般若心経を読んでおりました。私はついに覚えることが出来なかった。しかし考えてみるとこれは間違いです。本願寺派は子弟の教育をその点で間違ったと私は思っている。そう言っているけれども、本願寺は改めようとしない。

 これは四国に行ったときであります。四国で私はお遍路したことがあります。全部やったわけではなくてつまみ食いです。そのときに一人でやってるお遍路さん、二人でやってる人たち、四五人でやってるお遍路さん、様々な方たちにお会しました。それは皆さん谷間を歩いているとき、山肌をはいのぼっているとき、海辺を歩いているとき、遠くから見ていると実にいいのです。  白装束で杖をついて、鈴を振って般若心経を唱え、ご詠歌を詠いながら行く。菅笠の上に同行二人と書いてある。その姿を見ているだけで、ああ、色即是空だ、空即是色だと思いますね。空がどうだ、色がどうだなんて考える必要はない。色即是空、同行二人、菅笠。すっぽり自然の中に入って、その全体が色即是空だ。これが仏教の世界じゃないか。無常観の世界ではないか。 そうして歩いていると、その山々や谷々に、さまざまな先祖たちの魂が宿っている、そういう感覚になってきます。これは古代万葉人の感覚がそういう形でよみがえるからだと思います。

 仏教では霊魂を説かない、ということを教条主義的に信じ込んだ人間が、四国をお遍路してご覧なさい、全然つまらないだろうと思う。自然が単なる自然にしか見えなかったら、魂による交流は出来ません。絵を見るように自然は美しい、という言い方は出来るかもしれない。川のせせらぎは音楽のように美しいということは言えるかも知れない。  しかしそこに死者の霊が宿っている、鎮まっていると思えばこそ、歩く自分の体に力が入る。これが日本仏教だったと私は思います。

四十九日、日本人の心の遺伝子

 私はもう三十年くらい前に父親を亡くしました。病院で死んだのですが、初七日法要、二七日法要と済んで、四十九日法要が済んだとき、ふっと佐渡に行ってみようと思った。何の脈絡もないのです。佐渡に行って佐渡の西海岸から夕日を眺めてみたいと思った。それが四十九日目です。とるものも取りあえず法要を終えて、船に乗って佐渡にわたりました。晴れた日でした。  日中は島内の観光旅行をして、夕刻になって西海岸の絶壁のところにきた。佐渡西海岸の絶壁というのはすごいところです。観光名所と言われておりますが、それを私は何かで読んでいた。そのとき日本海の彼方に沈んでいく荘厳な落日の光景を見て驚きました。恐ろしいような美しさです。その太陽が海の彼方に沈んでいくときに、自分の親父の魂が浄土に行ったと実感いたしました。

 私も戦後教育を受けた人間、大学で霊魂なんていうものは存在しないといわれ続けてきた男であり、今でもそういう不可知論的な考えを持っている。だから浄土が実在するなんて毛頭思ってはいない。もう一つ言えば魂が実在するかどうかと言われれば答に窮します。教室で学生たちによく聞かれます。これは本当に困ります。このとき私は三つの答え方をしている。  「ある」「ない」「あるかないか分からない」この三つです。相手を見て「ある」といい、この場は「ない」といったらいいか、「あるともないとも言えない」といったら一番いいのか、その場で判断します。これは学校の教室だけではなしにいろいろな人に聞かれます。あると言って欲しい人の場合には絶対にあると言う。ないと言って欲しい人にはないと言う。これは話をしていればどう言って欲しいか分かります。 こういうときに思い出すのが「うそも方便」というお釈迦様の言葉です。本当に答えに窮することが人生至る所にあります。やはり相手を見て答えなければならない。多様な答え方があっていいだろう。そのときに出てきたのが対機説法、うそも方便です。これはお釈迦様の知恵だと思いますし、教師たる者の知恵でもあります。どれか一つでなければならないという方がおかしいのです。人生にはいろいろな謎に満ちた現象がたくさんあります。問題はそこで相手に何を伝えるか、どういう衝撃を与えるかです。ですからそういう三つの答え方を用意している。

 さて、私は魂の実在を信じていないのです。浄土の実在も信じていない。しかし夕日を見るときはあの夕日の彼方に浄土が存在するかも知れないと思うときがある。あのイメージによって自分の何かが喚起されることがある。これはやはり日常的な意識にはのぼってはいないけれども、日本人の五百年、千年の信仰の伝統というものが流れているからかもしれない。これがかき立てられる。特に日本海の夕日はいいものです。日本海を旅しての楽しみは夕日を見ることです。

 芭蕉が奥の細道の旅に出るときも、目的はいろいろ持っていました。芭蕉隠密説というのもあるくらいで、確かに伊達藩の騒動で、伊達藩がどうなっているかを調べるために行ったという人もいます。しかし伊達藩を過ぎたところでは、本当に自分の行きたいところへ行った。まっ先に行ったのが酒田です。ここで落日を見てちゃんと俳句を作っている。

 「熱き陽を海に入れたり最上川」

 これは酒田です。熱き陽、真っ赤に燃えた太陽、真夏、日本海の彼方に沈んでいく。足下には最上川が滔々と流れている。最上川の流れと落日、太陽が沈んでいく勢いを同時に写し取った俳句です。これは奥の細道の中の傑作だと思います。伊賀上野の山の中に生まれた芭蕉、江戸にいてもあまりいい落日は見なかったと思う。やっぱり落日は日本海だという情報があって、福島を通って仙台を横切って平泉まで行きました。ここから半日北上すれば花巻です。花巻まで来ればまた一首大変なものを作ったと思いますけれども、ここまでは来ないで戻ってしまう。  そうして酒田へ行く。これは酒田の落日を見たかったからではないか、というのが私の想像です。どの国文学者も認めてはくれませんけれども。

 こういう気持があったものですから、親父の四十九日が終わったときに佐渡に行こうという、何か感が働いたのです。

 それではなぜ四十九日か、問題はここです。私は東京生活が長かったのですが、十五年前京都に移りました。数年前友人が亡くなってお葬式に行った。手許に不祝儀袋がなくて文房具屋に買いに行った。そうしたら二十くらいのお嬢さんが出てきて「不祝儀袋といっても二種類ありますがどちらにしますか」と言う。一枚は御仏前、もう一枚は御霊前と書いてある。「どう違うの」と聞いたら「四十九日までは御霊前、それ以後なら御仏前」と明快にお答えになった。これは民俗学者か仏教学者が教えたのでしょうね。これはやはり日本人の千年の伝統というものがあって、四十九日を一つの境にしている。  四九日までは霊なんだ。それ以後は仏になる。さっき言った神仏習合、山を媒介とした共存システムの信仰です。死後人の魂は古代万葉人にとっては山にのぼっていく。何日か経ったら神になる、こういう変化を意識していた。四十九日か百日か、ある一定の段階で死者の運命が変わるということです。これが仏教が入ってくることによって、神の領域と仏の領域と役割分担をするようになった。これが一つであります。

 もう一つは柳田国男さんの言葉です。これまで私はあちらにそれ、こちらにそれて、学問をやってまいりました。それで宗教のことを勉強してまいりましたが、その中で日本人の信仰、日本人の生活を考える上で、民俗学者柳田國男から受けた影響は非常に大きなものがあります。その柳田さんが特に晩年になってこういうことを言われている。「自分は自分の死後、その魂がどこに行っているかが、四十九日までは分かる」というのです。柳田国男という人は合理主義者ですよ。ヨーロッパの学問で理論武装した合理主義者です。その柳田国男が、自分の死後四十九日くらいまでは自分の魂がどこら辺をうろついているか分かるという。  それは屋根だというのです。これもいいかげんなものだと思うのですが、屋根のあたり、天井のあたりを浮遊しているというのです。ところが四十九日が過ぎるとそれがどこに行くか分からない。これがずっと気になっていた。私の意識無意識の中にこの言葉が沈殿していたのです。それで自分の親父が亡くなったとき、四十九日目にふっと佐渡に行ってみたいと思ったのではないか。親父の魂と出会うことが出来るかもしれないと思ったのです。

 この四十九日というのは、柳田国男さんの時代までの多くの日本人が普通に持っていた感覚ではないかと思います。初七日、二七日、三七日、というと数学的に分析するような理屈になってしまうのですが、四十九という数は、これは重いものがあると思うのです。なぜ四十九かといえば、これは仏典の問題もあるし、言葉の問題もある。長年繰り返してきた儀礼の問題もある。これが伝統だ、心の遺伝子だと私は思っております。ただこうしたものが、これからの若い世代に受け継がれていくものかどうかは分かりません。

仏教の持つ鎮魂浄化の力

 仏教というのは死んだ人の魂を浄化する思想だと思います。悪人だろうと人殺しだろうとどんな人間でも死んでしまえばその人の霊魂は必ず浄化される。浄土に往生させるといってもいい、浄化装置が仏教にはある。これはすごい思想だと最近思うようになりました。この死者を浄化するという思想が中国にはないからです。韓国にもないからです。このことが冒頭に申し上げた靖国問題と深く関わっている。霊魂を慰霊する、鎮魂するというメカニズムが中国の伝統的な思想の中に育たなかった。これを中国人の研究者が言っている。  中国人と日本人の文明の違いは死者を許す文明と許さない文明の違いだというのです。こういうことを最近私の研究所においでになった、近代政治学を研究していらっしゃる方が言われた。私はハッといたしました。中国人というのは死者も許さない、いっぺん悪いことをやった人間はどこまでも追求する。司馬遷の「史記」に死体に鞭打つという言葉が出てきます。史記、六十六巻、伍子胥という政治家が出てまいりまして、これが兄と父親を平王に殺され、国を追われる。流浪の旅をして最後力をたくわえて自分の祖国に戻って、父と兄を殺した平王に復讐しようとする。  そのときしかし平王は死んでお墓に入っている。お墓にいってお墓を暴いて死体を取り出してそれに百回鞭を打ったという話があります。

 もっとすごい話もあります。十二世紀南宋の時代ですが、将軍岳飛とそのライバルだった秦檜という政治家がいた。この岳飛を秦檜という政治家がだまし討ちにして殺すわけです。ところがその後に秦檜が、だまし討ちにした悪人だということが分かって、殺された岳飛は神として祀られる。岳飛廟というのが各地にあって祀られています。一番有名なのは浙江省の岳飛廟です。ところがそれをだまし討ちにした秦檜、これは中国の民衆によって悪人の典型として批判されるようになります。その岳飛廟の前に秦檜の縛られた像を造っているのです。  日本人はこんなことはやりません。いかなる悪人とはいえ、死んで後まで鉄像にして、しかもそれが縄で縛りつけてある。そうしてこれを大衆の目にさらしている。中国というのはすごいと思います。死屍に鞭打つという伝統がそういう形で生きている。靖国神社に祀られているA級戦犯を許せないのはそこなんです。

 同じことが韓国でも言える。韓国では恨(はん)の五百年という。恨みです。この恨みの五百年が、韓国文化を語る場合のキーワードになるといわれてきました。この恨というのは内面につもりつもっていって晴れることがない。五百年というのは李朝五百年ですから儒教の支配した時代。儒教というのは悪人を死んで後まで許さない。これが恨という思想と結び合っている。日本にも怨霊信仰というのがありますが、日本人の怨霊、祟りの信仰とは比べものにならない。この日本人の祟りの信仰では、どんな非道な人間でも死ねばこれをまつり上げて鎮魂する、それが仏教です。  死者を許すのが日本の文明です。その主要なイデオロギーになったのが仏教です。ところが中国はその仏教を取り入れていない。中国社会の主要な思想は、革命以前は儒教です。朝鮮半島の李朝五百年も儒教です。この儒教的なイデオロギーでは死者も許さない。

 これはどちらがいいとか悪いとか言っているわけではありません。私はナショナリズムをここで主張しようともしておりません。ただ仏教という思想は死者を鎮魂することにおいて、アジア世界においては大変大きな力を持ったのだということを申し上げたいのです。その前提にあるのが死者の霊魂、霊魂の慰霊というものがいかに重要であるかということです。それを靖国だけの問題に矮小化してしまってはいけないのです。やっぱり浅草の観音様までやってきて、ああ、お祭りみたいににぎやかね、そう親子で言っている、あの世界まで行かないとだめなのです。

 というようなことで時間になったようでございます。ご静聴ありがとうございました。(拍手)

質疑応答

 「質問」 先祖のことは菩提寺に任せて、あなた自身の悩みは新興宗教に任せなさい」という情勢の中で、我々禅宗僧侶は霊魂の有無や四十九日について大衆にどう説いていくべきですか?

 「答え」 結論から言うと、日本仏教の精髄は、先祖供養だと思います。特に江戸時代以降、天台、真言、浄土、禅、日蓮、全ての宗派にわたって大衆の間に影響を与えたのは、先祖崇拝なのです。
 その大衆は、それぞれの菩提寺の宗派にかかわる教義は何も知りません。菩提寺にどういう本尊がまつられているかも何も知りません。今日でもなお知りません。例外は般若心経くらいじゃないですか。
 つまり先祖を供養するということで、日本仏教は日本仏教になったのだと思いますね。ところが従来の仏教の考え方は、先祖崇拝は仏教本来の姿じゃない、というネガティブな評価しかしなかった。
 私は釈迦の仏教は釈迦の仏教で大きな普遍的な意味をもっていると思いますね。それはそういう受けとり方をする地域においてはそうだ。日本人にもありますよ、それは。でも日本仏教は釈迦の仏教と同時に先祖も大事にしようという宗教だと思いますね。
 キリスト教徒が神の前で身を慎んで日常生活を行うように、日本人は先祖の影を感じ、先祖の名に於いて身を慎んで生きてきた。ただそれは、現代の西欧社会の人々が、神の存在に懐疑的な目を向けるように、現代の日本人も先祖の姿に懐疑の目を向けるようにはなってきたと思いますね。
 さて、その先祖の実態は何か?霊魂か、イメージか、思い出か、記憶か。これはやはり、いろいろあると思いますね。さあそこで、新興宗教は「葬儀と先祖崇拝は菩提寺に任せなさい。後の一切の現代的な悩みはみんな私共がやります」みんなそう言いますよ。大勢はそういうふうに流れて行くと思いますね。それをどうするかは皆さんが考えるべきことです。  やはり、豊かな自然と日本人の先祖崇拝とは切っても切れない。山を見てそこに仏の声を聞いたり、神の気配を感じたりする。自然環境に恵まれている日本人は、そういう感覚とは、縁が切れないと思います。
 その意味では先祖崇拝の感覚は残ると思う。ただそれを現代的な形でどう読み替えていくか、生き返らせていくか、ということでしょう。
 先祖によって、或いは先祖の存在をどうこうする事によって、自分の心が清められるとか救われるとか癒されるとかいう事は、新興宗教のほうが言っているのと同じようにやれるでしょう。現にやってますよ。心理学とか精神医学とかさまざまな装置を用いて、それらを取り入れて、今日の後の先生がお話になられますね。貪婪に新しい思想を取り入れたらよろしいのじゃないでしょうか。
 核は先祖だ。自然と先祖崇拝なんだ。しばらくはそれでいくんじゃないでしょうかね。いや、いいですよ、先祖を崇拝することは今の日本人の道徳教育、宗教教育にとってものすごく大事なことだと思います。
 とりわけ今日、分子生物学が発達してまいりまして、DNAだなんてことがよくいわれるようになった。それではそのDNAが先祖か?ぼくは質問するんですよ。さびしいじゃないですか?そうだ、寂しいよ、DNAが先祖じゃ。受精卵が先祖か?そういうことを考えますね。分子生物学のようなマクロな世界で先祖を考えるのか。そうじゃなしに、大いなる自然の中で先祖を考えるのか、これはこれからの大問題です。

 「質問」 禅では魂はないと言いながら我々は毎日先祖の魂の供養をしている。縄文以前から続く自然の中に先祖の魂が宿るという考えから神道が発生し仏教の鎮魂ということが生まれたのでしょうか。

 「答え」 寺田寅彦という地震学者がいます。東京大学の物理学科を出て、地震研究で生涯を終えた方です。夏目漱石のお弟子さんでもあるし、日本の地震研究では先駆的な仕事をした科学者ですよね。
 この寺田寅彦さんが最晩年に書いた『日本人の自然』という文章がある。その中で彼はこう言っています。「ヨーロッパの自然と日本の自然を比較すると、特に西ヨーロッパの自然というのは非常に安定している。なぜ安定しているかというと地震がないからである」
 さすが地震学者ですよ。確かに西ヨーロッパは非常に地震が少ない。イギリスは一度も地震が起こっていない。世界の地震地図というのがありますが、イギリスはまったくの空白地帯であります。
 そういう地震の少ないところから自然科学が発生したというのです。自然が安定しているから、それを客観的に観察し分析し定量的に計算することができて、随ってコントロールしそれを活用することができた。自然科学はまさにそこから発生する、ところがそれに対して日本列島はものすごく不安定である。それは地震があるから。毎日のように地震があると、不安定な自然に対する日本列島人の感覚が、自ずから変わってくるというのです。  どう変わるか、自然が荒れ狂う時にはその前でひざまずく。自然をコントロールしたり自然に反逆したりする気持ちを捨てる。敬虔な気持ちになる、自然から学ぶ気持ちになる。
 ここが、西ヨーロッパの人々と日本列島人との基本的な違いだと、地震学者、科学者としてそう言うわけです。ところが自然が不安定だというのは千年2千年の歴史にとどまらない。それこそ縄文以来の長い時代そういう状況が続いてきたと彼は言うのです。そうなった時、そういう日本人にとって自然は単なる自然ではない、というのです。自然の中に神の声を聞くようになる。人の声すら聞こえるようになる、と寺田寅彦が言っているのです。
 私の体験で言いますと、例えば、イスラエルに行きますと一望千里砂漠でありますから地上に頼るべき何もない。結局、天上の彼方に唯一の絶対的な価値あるものを求める以外にない。一神教的な背景がまさに砂漠的な風土から生まれているということが分かるんです。
 日本に来ますと、こんな豊かな地上の自然を見ていますと、天上の彼方に唯一の価値を求める必要はない。そのことと同じだと思いますね、寺田さんが言っていることは。豊かな水、山の幸、海の幸です。それでそこに神を感じたり仏や人の気配を感ずる、声を聞く。その結果、「天然の無常観」が生み出されたというのですね、寺田さんは。
 その転変極まりない自然、ひとつとして永遠なるものは存在しない。この無常観というのは、何も仏教が日本にもたらしたものじゃないというのです。仏教以前から、ずーっと大昔から日本列島には存在していた感覚だというのです。科学的真理と宗教的真理がそこでぴたーっと合体するわけです、天然の無常観という言葉で。その無常観はおそらくお釈迦さんの無常観とはちがう、湿った無常観だと私は思います。
 その「自然の中に魂を感ずる」という感覚がそこから出てきて「神道で鎮魂というのではないか」とおっしゃったのはそのとおりなんですが、もしかすると神道が発生する以前からの問題といってもいいかもしれません。仏教といえども、その影響を受けざるを得なかった、といことではないでしょうか。
 考えてみると、ごく当たり前の事です。当たり前の事を当たり前に我々は教えられてこなかった、ガンは大学ですよ。大学の仏教学というのが誤ったんですよ。明治以後の仏教学は大きな役割を果たしていますが、この一点に限って、大いなる誤りを犯した。そういうことを日本の宗門大学は高らかに宣言すべきである、そういう時に来ていると思いますね。